新テロ法とISAF参加

  • Day:2008.01.11 21:51
  • Cat:時事
いただいた年賀状の一枚に、当ブログは「社会派」で「チョット難しいなあ」というご叱責を頂戴しました。

平易な言葉で書くというのは難しいもので、修行が足りず申し訳なく思います。

で、今日は努力してかんたんな表現を試みようと、テーマはやっぱり今日成立した新テロ法でしょうか。

私の考えは実は小沢一郎民主党党首に近いのです。
不朽の自由作戦の一環としてのインド洋での給油活動は憲法上の問題もあり、かつ個人的にも反対です。
そして、アフガニスタンで展開しているISAFへの参加は、やはりこれも憲法上問題はありますが(ここは小沢氏と違います)、賛成であります。

2001年の末に出張でJICAアフガニスタン事務所へ行きました。JICA関係者の生活環境や医療事情を調べて、少しでも改善するためでした。そのとき素朴に思ったのは、他の援助機関(USAIDやEUなど)は、いざというときに頼れる自国の軍が来ているんですが、ODAで来ていて、徒手空拳なのは日本だけなのです。カンダハルの米軍医療施設を訪問して、何かあったらよろしくとお願いしたら、「日本はCoalitionだからなんとかしてやろう」と言われてなんだか情けなくなったのを覚えています。ただ、これは理由にはなりません。

賛成の理由は次のように考えるからです。

そもそも憲法9条が、日本国に戦力の不保持を義務付けた、国際紛争解決の手段としての戦争、武力の行使・威嚇を放棄させたのは、言うまでもなく満州事変から続いた15年戦争を反省させるためです。
この15年戦争の中でも、「軍の性」として特筆すべきは、張作霖爆殺事件、柳条湖事件のような「自作自演」と、第二次上海事変から南京進軍にいたる「暴走」が挙げられると思うのです。つまり、日本の軍ってのはほうっておくとなんかやりたくなってしまう危ない存在だと。だから、海外へは出さないことにしました(そもそも保持しないことになっていたのですが、それはおいておくとして)。その意味では、ISAFに参加することも危ないわけです。

決定的な違いは指揮権が誰にあるかということです。大日本帝国陸軍とISAFではその点が違います。ISAFの指揮権は今NATOにあります。自衛隊がNATOに参加するということはNATOの指揮下に入るということなのです。それなら、「自作自演」や「暴走」の心配は限りなく小さいのではないですか?

それでもなお、という考えもよく分かります。
100%ないとは言えないし、第一参加してもメリットないじゃん、もしも犠牲者が出たらどうすんのよ、と。

制度的保障っていう概念があります。憲法の基本的人権を守るために、制度で歯止めをかけるんです。例えば、政教分離。国家と宗教を分離する制度を設けました。これは、もしも国家が特定の宗教と一体化してしまうと、戦前の日本の国家神道のように、他の宗教を圧迫し、信教の自由を侵害しかねないからです。
もう一つ例を挙げると、大学の自治というのがあります。これも基本的人権としての学問の自由を保障するためのものです。政府が大学を直轄しても、学問の自由はあるかもしれないけど、心配だから大学に自治を与えようということです(放棄しているところもありますが)。

9条も、相手国民の人権を守るために設けられた制度的保障と考えられるのではないかと私は思っています。制度的保障は、とても重要ですが、それそのものには価値はありません。あくまでもそれによって保障されるものに価値があるわけです。

「羹に懲りて膾を吹く」が戦後の日本だったとすると、もう少々ぎりぎりのところで難しい舵取りをしていかなければ、いい世の中になっていかないと思うことがよくあります。これもその一つではないかと。

そのときにどこまで緩和できるかというのが、国連決議に基づくか否かという線引きだと思います。米軍主導の不朽の自由作戦を認めれば、歯止めがなくなってしまうのではと恐れます。

ISAFへの参加が、アフガニスタン国民の人権を侵害するものになるのか、保護するものになるのか?
そう考えると何のメリットもないとも言えないのではないかと思うんですね。むしろ、バードンシェアリングを逃げているような後ろめたさを感じます。

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