明けましておめでとうございます

nengajou

本年も、よろしくお願い申し上げます。

年末年始は『日常という名の鏡』(佐藤真著)を読んでいました。
著者は『阿賀に生きる』(1992)という、阿賀野川流域の3組の家族の日常を撮影したドキュメンタリー映画の監督です。未見ですが、今年最も見たい映画です。

読んでいて、共感できることがたくさんありました。
例えば、こんな部分。

 「人は社会問題やテーマのために生きているのではない。いかに社会的テーマをかかえていようと、人の日常は平凡でありきたりなものだ。逆に、社会問題やテーマに合致する特別なところだけを、普通の暮らしの中からピックアップすることによってはじめて、社会問題が問題たりえるのだ。この世に障害者や水俣病患者が存在するのではなく、人がそう呼んで区別するから障害者や水俣病患者が生まれる。したがって、その社会問題のあり方は、作り手の政治性によって右にも左にも、白にも黒にもなる。
 私たちが念仏のように唱えていた普通の暮らしとは、そういった作り手の政治的意図が通用しない日常そのものである。それは、とりとめもなく、さりげなく、解釈不能なほど退屈なものだ。でも、本当にそんなものが撮れたりするのだろうか。そんな無垢な日常は、追いかけようと思ったとたんに手の届かないところへ逃げる蜃気楼のようなものなのではないか。」

阿賀野川といえば、新潟水俣病で知られていますが、佐藤監督はこの問題を前面に出すのではなく、未認定患者3家族(「百姓、船大工、職人)の日常をフィルムに収めます。16年も前にこんなことを考えてドキュメンタリーを撮った人がいたとは衝撃です。

この映画は数々の映画祭で受賞し、とても評価されました。
でも、佐藤監督は「悪評」を引用して、この映画の欠点もさらけ出しています。

「ドキュメンタリーというものは、人びとの暮らしや日常を撮りながら、いわばその日常性を切り裂き、日常性の深部に潜むものを抽出し浮かびあがらせるものだと思う。(中略)『阿賀に生きる』では、随所にカメラを意識させるカットが登場するが、カメラは常にオポチュニックなおかしみに彩られており、それが恰好のリード役を果たしているが、のっぴきならない形でカメラが画面の中に現れてくることはない。きわめて完成度の高い技術的にも練達された作品であり、若いスタッフがここまで到達したのは驚嘆に値するが、一服の楽しい絵物語を見た心地よさが残るにもかかわらず、現代の私たちの生の不安に共振してくるものが感じられないように思う。もし、あの酔っ払ったシーンを切り返し、物語へと収斂していく映像を壊すようなスタッフ討論がなされていたら、『阿賀に生きる』はスゴミをもった作品になったのではないだろうか。」(福田克彦「カメラが翻弄されている」『映画芸術』1992年冬366号)

新春早々、長い引用で恐縮です。でも、つくづく思いました。
いったいおまえは、何をするのかと。

日常という名の鏡―ドキュメンタリー映画の界隈日常という名の鏡―ドキュメンタリー映画の界隈
(1997/10)
佐藤 真

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