『絵はがきにされた少年』を読む

著者は毎日新聞の特派員、5年半南部アフリカ地域を歩いて拾い集めた一人ひとりの声を、彼らの生きてきた(いる)時代や、J・M・クッツェーの小説と絡ませて、興味深く読ませてくれました。特に援助について考えさせられる部分があったのでとりあげます。

前々回の記事で私はこう書きました。

「困っている人に手を差し伸べることに反対する人はいませんよね。でも、あんまり助けすぎると今度はその人が甘えてしまって自立できなくなってしまう…というのはよく言われることです。」

この本を読んで、これすらも簡単には言えないなあと思った次第、特に前半部分です。

「助けるということは無償のようでいて、実は助けられる側に暗になんらかの見返りを求めている。援助には目に見えない依存関係が隠れている。誰かがごく自然に「アフリカを救わなくては」と考えた途端、その人はアフリカを完全に対等な相手とはみなさなくなる。友人同士のような関係は消え、極端なところ、支配と隷属に陥ってしまう。」

さらにザンビアの農村で会った、初老の女性の言葉が追い討ちをかけます。
「はっきり言って、食糧はもらいたくないんです。届いたときは皆喜び、何日間かは思いっきり食べますけど。なくなったとき、とても空しい気持ちになるんです。私たちはこんなに働いて、トウモロコシをつくっても、結局、ただでもらったほどのものをつくれない。だから、もらうのなら、まだ肥料をもらった方がいい。乏しい収穫を前に、これをどうやって分けて、どうやって食べていこうかと思っているときに、ただの食糧が来ると、もう働く気がしなくなるのです」

前々回の記述を、「困っている人」ではなく、「困っていてかつ助けを必要としている人」とすれば、とりあえずはいいのかもしれません。でも、対等な関係はこれでは築けませんね。

市民社会プロジェクトのインドネシア人専門家アシャルさんが、懇親会で言ってたことばを思い出します。

「私はいつも住民に言っています。国際機関や欧米ドナーのものと違って、このプロジェクトには予算がありません。それはこのプロジェクトがaidではないからなんです。このプロジェクトはcooperation projectなんです。bersama(インドネシア語で"共同して何かをする"の意)なんです」

ザンビアの女性と一緒にトウモロコシづくりをすることが、お互いの尊厳を大切にしながら生活を向上させていくことにつながる一つの道だとは思います。でも果たしてそういうことなのだろうか、このテーマは限りない深淵を孕んでいます。

Comment

「援助(aid)」という言葉そのものが、「対等であること」とは矛盾しているように思います。「もの」や「お金」の流れだけでなく、「技術」の流れにしても一方向であれば、「対等」とは言えません。見返りでなく、相互のコミュニケーションが必要なのではと思います。

あるNGOの代表の人が「私たちは援助として、そこに住む人たちに良かれと思い、いろんなプロジェクトを行っている。だけどほんとは何もしなかった方が良かったんじゃないかと思うことがある」とこぼされました。

またある文化人類学者の話ですが、「貧しさは作られる」というのがあります。

東南アジアのある村に初めてその人類学者が足を踏み入れたとき、人々はとても豊かに暮らしていました。電気もガスも水道もない生活ですが、農業を中心にゆったりのんびり暮らしているように見えました。彼らに「貧しい」という言葉はありませんでした。
数年後、同じ村を訪れた文化人類学者は彼らに何度も「私たちは貧しい」「○○をくれ」という言葉を聞かされます。

その村にやってきた外国人旅行者に「テレビもラジオも電話もない、貧しい村だ」と言われた。貧しいとは「持っていない」という意味らしい、だからくれというのが彼らの言い分でした。「持っていない」ことに何の疑問も感じなかったときには「貧しい」という言葉はなかったというのです。

ともすると文化人類学者はノスタルジーに生きているといわれますので、「開発」の観点からすると、的はずれな感傷に過ぎないかもしれませんが。

もし先の初老の女性に肥料を支援するとしても、熱帯乾燥地で有効な肥料を考える必要があります。まず最初に学ぶべきことは「今まで彼らはどうやってきたのか」ということだと思います。

問題解決の根本はなぜそうなっているのかを理解しようとすることだと思います。アフリカの場合は、大規模な砂漠化の問題、部族間抗争による難民の問題、いまだに影響力のあるかつての宗主国の問題も絡んでいます。文化に対する無理解もあります。

「対等であること」は重要だと思います。ただ「彼女と一緒にトウモロコシを作る」ということで終わっていては、問題の解決にはつながっていかないのではと思います。

知人のソーシャルワーカーに言われた言葉です。「もし悩んでいる人がいても、その人の所まで降りていってはいけない。その人が解決できるように、手伝うだけだ。そうでなければ二人とも成長することはできない」

まだこなれていませんが「共生」という言葉があります。イヴァン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』、もう読まれたかも知れませんがお薦めします。

いろいろ考えさせられるテーマで書いてくださってありがとうございます。
(大変失礼いたしました。問題部分は削除させていただきました)
  • 2007/02/22 13:23
  • 紫陽花
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コメントありがとうございます。
貧しさは他者との関係性において生じますから、例えば無人島に一人なら、貧しいとかリッチだとか思いませんし、その文化人類学者の人の話はそうだろうと思います。ただ、問題は他者(他国)との関係を断ち切ることはもうできないということですね。その時どういう気持ちでいればいいのか。ブータンのグロスナショナルハピネスは、その一つのアンチテーゼでしょう。

またザンビア農村女性の話は、私はやらせだとは思いませんが、たとえやらせだとしても、その内容が説得力があるかどうかということが重要だと思います。懸命にトウモロコシをつくっても、ただで食糧が届けられれば、作る気が失せてしまうというのは、私なんかのようなものぐさな人間にはとても説得力があったので抜き出しました。少ない収量でも本来なら価格があがってほっと一息、というのもおじゃんですしね。
著者の真摯な筆致は全編をお読み頂ければ感じられると思います。
  • 2007/02/22 22:20
  • おおみや
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