想像力とは思い出す能力のこと

二年前に書いた「心を虚しくして思ひ出すことができない」の続き。

高橋たか子の『蘇りの家』(高橋たか子自選小説集〈3〉)は、息子ほどの年の雪生と暮らす女の話であるが、その主人公が或る日都心で仲間たちと酒席を囲んだとき、想像力のことが話題になった。女は言う。

「想像力、想像力っていうけどね、想像力ってのは、思い出す能力だと思うわ」

当然誰かが反論する。思い出すのは記憶力だろと。

女はなおも続ける。

「ええ、想像力ってのはいわば記憶力なのよ。自分の体験しなかったことの記憶を、思い出す能力のことよ」


女の考えはこうである。

「これまで無数の人々が死んできた。その人々が生きていた時に感じていた思いの一切は、一人一人の存在の井戸の、下の下へと落下していって、どこか共通の、茫漠と広いところに浮游するようになるらしい。井戸の囲いが肉体なのだ。人が死ぬとは囲いのところが死滅することであり、囲いの内にあった思いの一切は、下へ下へと落下していく。
 たとえば、愛し合っていた無数の男女の組があった。その人たちが死んだ後、愛する思いは死ぬことなく、落下していって蓄積されるらしい。同じ思いが何百年もにわたって積り積っていくと、その思いが厚くなっていき、生きものみたいに強く濃いものになっていく。そうして、内なる空に浮いている。多種多様な思いがそんなふうに浮いている。
 人は誰かを愛する時、私のものではないようなものを私のものとして強力にとりこんで愛してしまう。そのことで、そうでない時の自分とは別人のように、自分が過剰にみたされてしまう。」

※ ※ ※

想像する、というとき、私たちはどんな思考回路をたどっているだろうか。
例えば青空に浮かぶ白い雲を見てパンダの姿を重ね合わせるとき、既にみたことのあるパンダという動物の形を思い出している。また、初恋の人の今を想像する時、実際に見聞きした人の人生や書物などで知った人の半生のパターンのどれかを思い出しているのかもしれない。

そう考えると、想像するということはすでに知っている何事かを思い出すという作業だと言える。

しかし高橋たか子はもう一歩進んで、「想像力とは自分の知らないことを思い出す力のことだ。」と言う。

それは白い雲に実在しない生きものの姿を見出すとき、その空想の産物は自分のオリジナルではなく、かつて誰かが創造したことのあるもので、茫漠と広いところに浮游しているその他人の記憶を、その時思い出したということなのだろうか。

そうであれば、小林秀雄が心を虚しくして鎌倉時代を思い出していた、という文章も理解できる。鎌倉時代の比叡のなま女房は何を思い出していたのだろうか。

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