映画における、メッセージと余剰について

  • Day:2010.12.30 02:31
  • Cat:映画
12月19日、大阪国際協力センターで『アブバとヤーバ』の上映会が開かれた。
その時の様子
上映後、JICA大阪の国際協力推進員江本佐保子さんが聞き手になってくれて、拙い話を1時間ほどさせていただく機会を得る(最後までお付き合いくださった方々には心より感謝)。

上のリンク先の文章に、私の発言としてこうある。
「二つの遠い国を選んだわけだけど、長い人生を生きてこられたお年寄りに焦点を当てるとある程度共通するものは見えてくるんじゃないかとは思っていました。でもそれを強調しようと初めから思っていた訳ではなかったし、“コーリャン”という食べ物についてはそんなつながりが出てくるなんて思ってなかったですね。結果的に多くの共通するものが見えてくるような作りになったという感じですね」

この映画のメッセージは「日本とスーダンに多くの共通点があるということですよね」と言っていただくことがある。意図したことを汲み取ってくださってうれしく思う。

だが反面、メッセージとは無関係な場所に散りばめられた映像や言葉の群れを想起し、「そうなんです。よく感じてくださいました。ありがとうございます」と素直に言えずに口ごもってしまう自分がいる。それはたぶん、映像作品の持つ特性-仮に“余剰”としておく-に関連している。

※  ※  ※

12月29日朝10時の新宿武蔵野館がこんなに混んでいるとは思わなかった。渡された整理券は101番。200席位はあるだろうし、私が好む最前列の席はいつも最後に埋まるから座れないということはないだろうが、東京でも一館でしか上映されていないこの映画に多くの人が駆けつけるという状況は好ましい。レディースデイだったこともあるのだろう、9割5分は女性客だ。もちろん、男には直視しにくい内容の映画だからかもしれない。

『デザート・フラワー』(シェリー・ホーマン監督・脚本)
ソマリア出身の女性モデルが、自らの体験をもとに、FGM(女性性器切除)廃絶を訴えるという映画だ。切除のことは聞いていたが、マッチ棒一本ほどの穴をあけて縫合すること、初夜に夫がナイフで切ることは初めて知った。衝撃的であるとともに、美しい映画である。

この映画のメッセージは何かと問われれば、「無意味で危険なFGMの慣習を止めるべきだ」ということになるだろう。主人公ワリスのシンデレラ・ストーリーと、告白する勇気、最後の国連での演説は、この映画の主脈をなしている。しかしこの映画には、FGM廃絶というメッセージだけでは納まらない魅力がある。

例えば現実のワリス・ディリーはこう語っている。
「最も美しいと言えるのは、アフリカの風景の場面でしょう。」

同感である。
冒頭のシークェンス、少女時代のワリスが家畜の群れとともに礫のごつごつした沙漠を飛び回る。弟とともに画面の奥に小さくなるその瞬間、下手から山羊の群れがフレームインしてくる。このタイミングは神業だ。抒情的だが骨太の音楽と相俟って、いやでもこの映画に惹きこまれる。

こんな場面もある。
家出するワリスが乾いてひび割れした大地を歩く。カメラは斜め前方上からワリスをとらえる。クレーンに乗ったカメラはワリスから遠ざかり、まるで皮膚の表面の細胞のような紋様を描く大地が映し出される。その場にいれば渇きと炎暑に苦しめられるだろう場所が、スクリーンには美しい風景として現れる。

アフリカのシーン以外にもたくさんの素敵な場面がある。
ワリスのヌード写真撮影シーン、マリリンとのウォーキング練習のシーン、モップがどさっと床にたたきつけられるシーン(2回出てくる)・・・。

これらの中には、FGM廃絶というメッセージを「効果的に」伝えるために必要だったものもあれば、特に関係のないものもある。例えばウォーキング練習シーンは、ワリスが人間の女としての自分を獲得していく過程としての、ファッションショーに出演するというステップを踏むためのシーンであり、ラストの国連演説につながるものだと言えなくもない。その意味で、「メッセージ」に関連している。しかしこのシーンは決して国連演説のシーンに奉仕するものではなく、それ自体として素晴らしく魅力的なものである。

モップのシーンは「メッセージ」に無関係だ。監督の遊びかもしれないし、「繰り返し」によるおかしみの喚起を意図したものかもしれない。そして、印象的である。

また、字幕の妙もある。ロンドンのディスコで出会ったニューヨーク在住のハロルド・ジャクソンが、ワリスにダンスを教えようとして言う。“You are a good dancer." このセリフを字幕翻訳家西村美須寿は「回ってみて」と訳す。直後、ワリスはハロルドに取られた手を中心に一回転する。この訳は、おそらく脚本の会話よりも優れている。

大事なことはこれらを全部ひっくるめて、『デザート・フラワー』が出来上がっていることである。見終わった後、高野で、カフェ・ラ・ミルで、あるいはガルガンチュアで語られるべきことは山のようにある。「FGMを止めさせるべきだよな」という言葉だけではもったいない、豊饒な余剰が語られるのを待っている。

映画にはメッセージ以外のものがふんだんに盛り込まれている。それは余剰であるが作り手が何らかのこだわりを持って挿入した(残した)カット・シーンでもある。メッセージとともにそれらを楽しむ行為は、映画製作者や映画そのものにとってとてもうれしいものである。

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