心を虚しくして思ひ出すことが出来ない

高校の現国で読んだ「無常といふ事」(小林秀雄)は難しかった。
記憶に残っているのは「心を虚しくして思ひ出すことが出来ない」という一節である。

この部分、誤読していたのでよく覚えている。
「心が虚しくなっているから思い出せないのだ」という意味だと思っていた。それが、授業中に「心を虚しい状態にして思い出すことが出来ないのだ=心を虚しくできず思い出せないのだ」という意味だと教えられ、とてもびっくりしたことを覚えている。「虚しい」という言葉は否定的だと思っていたから後者のような解釈はできなかったのである*。

しかし、その部分の意味がわかったとしても、このたかだか文庫版で4ページちょっとの随筆が理解できたわけではなかった。30年余ぶりの今日、3度読み返して、おぼろげながら小林の意図が見えた気がする。

小林が比叡山に行ったとき、「一言芳談抄」の一文、比叡のなま女房が毎夜鼓を打って「とてもかくても候、なうなう」とうたうという話を思い出し、ひどく心を動かされた。それがなぜなのか、あとになってみると思いだせない、そのとき何かを思い出していたのに…、それは鎌倉時代かもしれない、と小林は言う。

歴史と相対する時、記憶するだけではだめで、思い出さなければならないと小林は言う。ここで初めて彼の言う「思い出す」という言葉が、自分が体験したことを回想することだけではなく、生まれていない過去にあったことを含めて対象にしていることだと気づく。

そして、「多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしてゐるので、心を虚しくして思ひ出す事が出来ないからではあるまいか。」と続く。

彼は比叡山で「青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やら」を一心に見ながら、心を虚しくしていた。そして「一言芳談抄」の一文とともに、鎌倉時代を思ひ出す事ができたのである。ここまでは文意がわかったつもり。

「上手に思ひ出す事は非常に難しい。」最後の段落はこう始まる。しかしこの6行は、何度読んでも心で理解することができない。「飴の様に延びた時間」、「常」と「無常」が示すものを想うことができないからだろう。もう30年楽しめる。

「上手に思ひ出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かつて飴の様に延びた時間といふ蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思はれるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思へる。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時(いつ)如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常といふ事がわかつてゐない。常なるものを見失つたからである。」

*一字一句にとらわれた解釈を小林に嗤われているようである。

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