あなたの、私の、物語

  • Day:2009.09.02 12:01
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地下鉄サリン事件の被害者・関係者らへインタビューした、村上春樹著『アンダーグラウンド 』(講談社文庫)を読む。

特にあとがきの「目じるしのない悪夢」には村上の思想が丁寧に述べられていて興味深い。

90年2月、オウム真理教が衆議院選挙に大挙して立候補したとき、千駄ヶ谷駅前で信者たちの踊りを見た著者は、そこに「名状しがたい嫌悪感」を感じ、その「もっとも見たくないもののひとつ」を「意識的に排除」した。

後になって、そう感じたのはなぜだろうと考えると、それが「実は自らのイメージの負の投影」であり、「「こちら側」=一般市民の論理とシステムと、「あちら側」=オウム真理教の論理とシステムとは、一種の合わせ鏡的な像を共有していたのではないかと」思うに至る。

この仮説が、「物語」をキーワードとして展開される。

「物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。」

人は誰でも自我を持ち、固有の物語を紡ぎだしている。そして、自我を取り囲む「世間」は自分の価値観に彩られた「物語」のようにはいかない、あるいは実現させてくれない、と嘆く。嘆きつつ、諦めたり、折り合いをつけたりして生きていく。それは常に満たされない状態であり、しんどいことこのうえない。

このしんどさから抜け出す方法がある。「自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに身を委ねる」(ラッセル・バンクス『大陸漂流』)ことである。その時、「人生が物語としての流れを失」う。

オウム真理教の信者たちは、自らの物語を麻原彰晃の物語に仮託した。そして自らの物語は自らの物語ではなくなった。彼らの(姿や踊りや歌)から、それはあからさまに感じ取ることができる。

そして村上が「合わせ鏡的な像を共有して」いると述べているのは、「こちら側」でも誰かの「物語」に自分の「物語」を委ねている現実があるということを意味している。

「あなたがいま持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもれない誰か別の人間の夢ではないのか?」

この疑問が解消されていないことが、「後味の悪さ」を捨てきれない理由だという。

※  ※  ※

村上が62人の被害者にインタビューを行ったのは、「こちら側」の「物語」に触れるためだったのだろう。62人の「夢」を描写したいと思った。その内容は、1995年3月20日の朝、地下鉄で何が起こったかということだけではなく、被害者一人ひとりのバックグラウンド(いつどこで生まれてどんな風に育ってきて、どんな仕事をしているか、どんな人生観を持っているか)を知らせてくれる。しかし、このインタビューで語られていることが、それぞれの「物語」=「夢」なのかどうにもしっくりしない。

ある者は昏睡中娘の「初孫の顔を見ないでどうすんのよ!」という言葉を鮮明に覚えており、ある者は事件の翌日、妻に離婚しようと伝えている。

確かに個々人の「顔」が見える話がある。それぞれが送っている暮らしに突然訪れた「事件」の凶暴さも身にしみる。しかし、これらは事実の集積であり、「物語」=「夢」ではないのではないか?

※  ※  ※

「物語」はインタビューの中で直接語られてはいない。複数の人々が語る事実の断片から、物語を浮かび上がらせるという作業が必要だ。

私が読み取った物語はたとえばこんなことである。

千代田線北千住発代々木上原行きの電車でサリンが気化し始めたのは新御茶ノ水駅の少し手前、実行犯は林郁夫である。大手町、二重橋前、日比谷、霞ヶ関と電車が走る間、サリンは流れ続けた。霞ヶ関駅で駅員が包みを処理し、電車は国会議事堂前まで進んで運転を中止した。

東京の朝のラッシュは私の最も嫌いなものの一つである。住まいを決めるときには必ずラッシュの酷さを第一条件に考えていた。乗客はいらいらし、人身事故で電車が遅れようものなら舌打ちが聞こえる。その大半が飛び込み自殺だということは分かっていながら。そんな状況では異常事態が起こったときでも一刻も早く電車を動かすことが何よりも優先される。毒ガスが車内に蔓延していても、電車は走らされた。効率性の物語と言っていいのだろうか。インタビューイーの一人は、霞ヶ関から国会議事堂前の一区間で被害に遭っている。

もうひとつ。

日比谷線築地駅で、「助けてくれ!」という女の人のすごく大きな声を聞いた男性は、単なるケンカだろうと思った。「朝からいったい、何をやっているんだろうな?」と。改札を出るときにサラリーマン風の男が「うわ、気持ち悪い。どうしてくれるんだ。」と怒鳴っているのを見て、「何をオーバーなことを」と思った。

丸ノ内線の後楽園駅の辺りで、ある女性は「息苦しさ」を感じ、窓を開けた。周りの人たちは全く反応を見せなかった。何も言わず、ほとんど何も反応しない。コミュニケーションなんて皆無。アメリカでの生活経験のある彼女は、アメリカだったら大騒ぎになるだろうと思った。しかし誰も一言も発しない。

ここから読み取れる物語は、仕事に遅れてはいけないという勤勉性、他者への無関心、「車内ではおとなしくしていよう」というマナー、話しかけることへの気後れ、なのだろうか。

※  ※  ※

実際には私はあの日、連休の谷間で有給休暇をとってアパートでごろごろしていたわけだが、もしもその場にいたとしたら、いずれの人達とも寸分違わぬ行動をとっていただろうと思う。息苦しくても我慢し、窓を開ける女性を眼の端でとらえるだけで、「助けてくれ!」との声をやりすごし、倒れかかる男性に助けの手を差し伸べることもなく、液体を新聞紙で拭いて、電車を発進させただろう。

それらの行動の原理となっているものを「物語」というのならば、それらの「物語」は確かに・・・自分のものではないのである。

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