始まりと終わり

年の終りに、素敵な言葉を二つ。


よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。(尾崎翠『第七官界彷徨』)


I don't expect my love affairs to last for long.(Madonna "ANOTHER SUITCASE IN ANOTHER HALL")


みなさま良いお年を。
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財団法人日本漢字能力検定協会が募集した漢字の中で最も多かったのが「絆」
学生グループが全国の172の大学合わせて1392人の学生から聞きとり、多かったのが「災」

私が思う今年の漢字は、「綻」である。

これまで堅固と思われてきた、いろいろなものの綻びが目につくようになった年だった。原発安全神話が笑い話となったことは最大の綻びだが、他にもある。

例えば司法。
日本の3権のうち、最も腐敗が少ないと思われてきたのが司法即ち裁判所である。
検察の捜査が真実を追求するものではなく、自らの描いたストーリーに合わせて被疑者を自白させるものだということが村木元局長事件によって明らかになったのは去年のことである。
今年は裁判所の訴訟指揮や判断も、なんだ検察の言うとおりやっているだけではないかと思わせる事実が次々と明らかになった。昨年無罪となった足利事件に続き、福井事件の再審が決定された。福井事件の再審決定の決め手は、これまで検察が開示していなかった証拠が開示されたことであった。つまり、最初の裁判では検察に有利な証拠だけしか明らかにされなかったのである。

オウム真理教の松本智津夫被告に対する死刑判決を巡って森達也と江川紹子がラジオで議論していたが、その最大の考え方の違いは、裁判は真実を追求するものなのか、当事者の主張のどちらかに軍配をあげるものなのかというものである。森は地下鉄サリン事件がなぜ起こったのかを、精神を患っていた松本被告を治療してまでも明らかにすべきだったと言い、江川は松本は詐病の疑いが強く、控訴しなかったのは弁護団の戦術ミスであるから一審での死刑確定はいたしかたないとする。

日本の裁判は真実を追求する場ではなく、立証責任のある側が立証できるか否かを判断するものであるとされてきた。その弊害が見えてきた。

一連の原発建設差し止め訴訟、設置許可取り消し訴訟でも司法は常にその安全性(危険性)を推進側の専門家の意見にゆだねて逃げ、判断を放棄してきた。

さらにあろうことか、放射性物質の除去を東京電力に求めたゴルフ場経営者の訴えを、実質的な理由を示さずに退ける判決さえ出ている。

裁判所に対する信頼は今や全くない。

※ ※ ※

もう一つは一部だが最も有力なマスメディア。
一連の原発事故報道で、その体質を皆が知った。大スポンサー東電に不都合なことは報道しない。政府の発表を垂れ流す。疑問に思っていても記者会見で突っ込まない。

こわいのは、これは何も今回の原発事故報道だけだったわけではないということだ。足利事件や福井事件の報道でも、多くのマスメディアは警察発表をそのまま紙面にするだけだったわけで、こんな楽で有害な仕事をしていて「社会の木鐸」でございと誇らしげに闊歩する人や組織は他にはあるまい。

※ ※ ※

「綻」は確かに困ったものだが、希望がないわけではない。

民主党が政権をとって早や二年、多くの人があまりにも稚拙で無能なこの素人集団に業を煮やしているのではないだろうか。私も同じ思いを抱くものではあるが、数少ない好ましいこともなくはない。

総合資源エネルギー調査会の基本問題委員会やコスト等検証委員会の委員に、飯田哲也、枝廣淳子、大島堅一ら、原発から利益を得ていない人たちが多数入った。しかも会議はネットで公開されている。このようなことは、自民党政権では考えられなかったことであろう。

「綻」は民主党の政権運営の方針から出たコマかと思う。単にグリップが甘かったわけではあるまい。

来年は「綻」から見えた膿を徹底的に洗い流す年としたい。決してそのまま縫い繕うことはさせまじ。
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