原発と私

涙は涸れることを知らぬ。テレビは数々の「ひと」に襲い掛かった災厄を伝える。
がれきの中で、家族を探すある男性は言った。「電気なんか無くっても、原発なんか無くったって、家族がいれば…」

3.11は私たちに問いかける。原子力発電にどう対処すべきかを。

福島第一原発のある双葉町と大熊町は、どんな経緯かは知らないが、原発を受け入れた町である。東電から、国から、たくさんの金が舞い降りただろう。住民税が安くなったかもしれない。箱モノを作ってその維持管理に莫大な費用を要したかもしれない。住民は原発の安全性を疑うことはなかった…、いや大多数の人はそのことを考えないようにして暮らしていたのではないだろうか。だからと言って、家を家族を、職を失っていいわけではない。

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1982年7月2日、敦賀市の高速増殖炉「もんじゅ」建設のための公開ヒアリングが行われようとしていた。開催を阻止しようと集まった8000人は、ヒアリング参加者の入場を阻もうと、前日の晩から会場を包囲していた。しかし公開ヒアリングの住民代表や聞き手たちは、いつのまにか会場に入り、私たちは間の抜けた群衆と化していた。その鬱憤は、動労と機動隊のぶつかり合いや、学生デモが警察車両のサイドミラーを壊すというだけで終わった。口々に、「ボス交だ」と呟いていた。

就職して最初に命じられた企画は、原子力発電のPR番組だった。泣きそうになった。なんとか接点を見つけられないかと思って、「ヒューマンエラー」を切り口にした企画を考えた。人間が完璧だったら原発を安全に運転できるかもしれない。でも、人間はエラーをおかす。もちろん、没。社内段階で。

1989年社会党が参議院選挙で躍進したときまでは嫌原発を意識していた。しかしその後、これを争点にするようなことを減らしてきた。その時点で私は負けた。脱原発の社民党に投票したことはない。いまさら何も言う資格はないかもしれないが、書く。

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原発が安全だと思いなおしたわけではない。たとえ安全であっても高レベル放射性廃棄物を処理する手段がないシステムはないほうがいい。自然災害ももとより、何よりも私は「人間はエラーをおかすもの」だと思っているから、いくら「日本の原発技術は世界最高だ」と聞いても信用しない。そういうやつほどますます信じられないし。

しかし日本政府はこれを進め続けた。政府の末端で働くことになった私も、その直接的な職務には無関係ながら、政府の原発政策に対して「無関心」になった。政権が替って、ますます原発は推進され、インフラ輸出の目玉商品になってさえいる。

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32歳で書いた修士論文のタイトルは「省エネルギー技術移転によるエネルギー消費抑制効果の測定手法」という長ったらしいものだ。二酸化炭素排出量を削減するために、日本からタイへ省エネ技術を移転したらどのくらいの効果があるかを試算したものである。この時点では地球温暖化を防止することは善だと、疑いを持っていなかった。

それがいつの間にか、地球温暖化防止=二酸化炭素排出削減=火力発電減=原子力発電称揚という図式になる。もともと環境の劣化を防ぐために温暖化防止が言われたのに、いつのまにか環境に大きな被害を与えかねない原発推進という話になってしまった。ブラックジョークだと思っていたら、政府は本気でそう思っていた。

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トレンチに高濃度の放射性物質を含んだ水があるということは圧力容器、格納容器ともに穴があいていることだと考えられる(注)。冷却すればするほど放射能高濃度の水がタービン建屋やトレンチにたまってしまうというのであれば、それをどこかへ排出しながら作業を続けるしかない。その間は、今と同じように放射性物質は大気、土壌、海洋に流れ続ける。福島第一原発から200kM以上離れていても、いずれ累積放射能物質が人体に「ただちに」ではなくても数年後には影響を及ぼすことになるだろう。それが上述のネグレクトの報いであるのは確かだが、「反原発」を堅持していたとしても同じ結果かもしれないとの諦めを抱いてしまうのは卑怯だろうか。

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現状考えられる最適な人生の過ごし方というのは、たとえ白血病になったとしても、癌になったとしても、これは元々の「天命」なのであって、決して東電の原発事故のせいではない、と思いながら死ぬことだろうか。これが日本人の「美徳」なのだろうか。

私は原発廃絶を言い続ける。20代の時に考えていたことって結構正しいので始末が悪い。

(注)原子力資料情報室の動画を見てそう考えるに至っている。
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災害ボランティア

ガソリンを3000円分買えたので、昨日、飯岡の災害ボランティアに行ってきた。受付場所は飯岡福祉センター。国道126号線(バイパス)を銚子方面に向かって、右手にJAのある交差点で右折、YACSドラッグの向かい側にある。ここで保険に入り、二の腕に名前を書いたガムテープを貼ってもらう。そして被災者からのニーズとボランティアグループのマッチングを待つ。11時半、すでに2000人くらい集まっていたようだ。

一人で行ったので、行列の後のグループに入れてもらった。リーダーはすぐ近所に住むIさん。これまで面識はなかったのに、こんなところでお会いするというのも不思議な縁だ。私たちのグループは7人、Iさんとその息子、銚子市の父娘、匝瑳市の青年実業家、高校3年生に私という組み合わせ。リーダーはメンバーの安否を把握するために、大きめのポストイットに全員の名前と携帯電話を書いて持っておく。

10分ほど待っていると「○○に20人!」という声が響く。前後の2グループと一緒に、総勢18人で派遣されることが決定した。千葉市から来た大学生グループと、小見川、山田、神栖の若者グループだ。スコップは7本あったので、土間箒とがれきを入れる袋を数十枚センターから借りて車を待つ。女性陣はシートのあるワゴン車で、男ども12,3人は荷台にぎゅう詰め状態で現場へ向かう。苦しい態勢だが文句をいう者は一人もいない。

10分も経たずに現場に到着。玉崎神社近くの大きな二階建て。躯体は残っているが、一階は津波が押し寄せドロドロ、屋根瓦も半分近くがずれてしまっている。何から手をつけていいか迷っていると、持ち主のKさんから「まずは車を動かしてほしい」と言われる。

玄関前に白い車が一台。すでに使用していなかったのだろうか、ナンバーはなくハンドルがロックされている。鍵もない。この車が玄関からモノを運び出す妨げになっていた。男ども8人くらいで玄関を向いていた鼻先を回転させる。重い。少しずつ動かし、道路側を向かせる。とりあえず玄関前にモノを運び出すスペースが確保された。

それからは18人全員が一階にあるタンスやテレビ、畳を黙々と運び出す。ガラス片や木切れなど細かいものは袋に入れる。Kさんは「全部運び出してくれ」と言う。玄関前のがれきの山が見る見る巨大になっていく。床板は海水に浸かってへなへなになっているのでコンパネや石膏ボードを敷いて歩けるようになっている。それでも、私も含めて床を踏み抜く者が二、三いた。

1時間半ほど経ち、一階からほぼすべてのモノが搬出されたころ、リーダーから「休憩」の号令。若者たちは持参のおにぎりを食べる。コンビニで買ったものではなく(売ってないからな)、自分で作ってきた者が多数だ。女子学生が男子学生の分も作ってきてあげたのだろうことを想像させるやりとりも聞こえてほほえましい。Kさんからのお茶の差し入れがありがたい。自宅がこんな状態になってしまっていても人は人に対して気遣いができるのだ。

後半戦開始。このお宅は割烹旅館をしていたために、大きな厨房に据え付けられた棚にたくさんの食器が並んでいた。これらをすべて米袋に詰めて出す。勿体ないが仕方がない。そして最大の難関が厨房の奥にデンと構えた業務用冷蔵庫だった。ステンレスの直方体の上部には、冷却用のガスを送り込むポンプのようなものが付属している。これを取り外せないかとパイプをのこぎりで挽いた途端、「シュー!」とガスの出る音が。冷媒のフロンガスだろうとはわかっていても、一瞬肝を冷やす。いったん避難。

ポンプ様の物体の切断は諦めて、ガスが出切った後8人がかりで冷蔵庫を運び出すことにする。床を踏み抜かないように20メートルほど進む。玄関を抜けたときにはほっとした。

最後は二階にあるものをリレー方式で運び出すとともに、一階部分の床板の撤去。根太がむき出しになり、その下には津波が運んだ鉛色の泥が堆積している。フローリング材はそのまま搬出し、その下のベニヤ板は折りたたんで袋に詰めた。社協のHPには軍手でなく皮手袋が必要と書かれていたが、そのとおりだ。

2時45分頃、終了。
倒れた灯篭の痛々しい玉崎神社境内の手水鉢で手を洗い、これまたKさんから差し入れの鯛焼きを18人でぱくつく。この味は忘れない。

ワゴン車でセンターへ戻る。そのとき同じグループの高校3年生の指をドアに挟んでしまった。終わってほっとした気の緩みか、申し訳ないことをした。「大丈夫」と言ってくれたけど、皮の向けた左手の指は痛々しかった。本当にごめんなさい。

※旭市飯岡地区のボランティア受付は、本日は雨のため中止されました。私の見る限り、まだまだ手つかずの家も多く、ニーズは大きいと思われます。ボランティアは家の持ち主からの要請に基づいて活動しますから、家に誰もいないと手を出すことができません。避難中の方々からどうやって要望を聴き取るかというのが課題ではないかと思います。

飯岡地区の被害状況

旭市社会福祉協議会では、ボランティアを募集しています。

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国道126号線(旧道) 奥が銚子方面

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海側を見る

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国道に面した魚屋さんの駐車場

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この奥に実は知り合いのお家がある

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Hさんのお家……

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何度かあがらせてもらった部屋が… 
隣で片づけしていたおばさんが、Hさんは近くに避難していると教えてくれた

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国道と並行して海側にもう一本走る道路 右側は海

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陸側を見る

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区民館

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津波

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千葉県旭市飯岡漁港 3月12日午後の姿。

2004年12月26日のスマトラ島沖巨大地震津波の被害に遭ったバンダアチェでは、海岸から2km内陸まで津波が押し寄せた。「うちは浜から4kmあるから大丈夫だろう」と思っていた。しかしそれは何の根拠もないものだったのだと思い知る。東北地方では5km内陸まで津波が到達している場所がある。今回うちが無事だったのは、震源が茨城沖までで食い止ってくれたことなど、いくつもの偶然が働いている。彼我の差は紙一重でしかない。

スマトラの津波の犠牲者は20万人に及んだが、原発はなかった。
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