• Day:2009.10.21 18:50
  • Cat:時事
ドイツ映画『善き人のためのソナタ』の冒頭に印象的な場面がある。

ベルリンの壁崩壊前、東ドイツのシュタージ(秘密警察)が、西側への逃亡を手助けしたと疑う人物を長時間尋問する。尋問を担当した主人公ヴィースラーはそのビデオを見せながら、学生たちに向かってこう言う。
「シロは怒り出す、クロは泣く」

菅家さんは泣いてしまった。
足利事件で17年半も獄中にあった人である。

当時の検察・警察が上述の法則を採用していたわけではないと思う。彼らを誤信させたのはDNA不完全な鑑定だった。少しは同情の余地があると思う。

科学的証拠ほど強いものはないのだから、いかに被疑者が否定しようとも、クロであることを前提に尋問するのは理解できる。検察だけでなく、裁判官もそれだけを有罪の判断材料とした。

そして、その鑑定が間違いだったことがわかった。

問題はここからである。

※ ※ ※

大島渚に憧れて法学部に入学したその日、中庭で声をかけてくれた上級生が見せてくれたのは、岩波信書の『誤った裁判』という本だった。法律のホの字も知らないポッと出の少年に、いきなりの洗礼である。大学とはこういうところなんだと思った気もする。

それ以来、『冤罪』には関心がある。ほとんどの事例では真犯人を捕まえている日本の警察・検察には敬意を表する。しかし、少ない数ながら、当人に取り返しのつかない被害を与える『冤罪』があるのも事実である。

※ ※ ※

その時、どうするか。鼎の軽重が問われる瞬間だ。

現今の司法制度は、真実を究明することが目的ではなく、挙証責任を果たせるか否かを裁判所が判断するということになっている。刑事事件の場合は検察に挙証責任がある。その主張が説得的か否かを裁判所は判断する、ことになっている。

だから、真犯人であっても検察の示す証拠が不十分であれば、無罪となりうる。

そこで裁判所が真実を追求することはしない。双方の主張の妥当性を吟味するだけである。真実究明は手間がかかるからというのが理由である。

菅家さんの場合、17年半獄中に閉じ込めたことを警察・検察は謝罪している。裁判所はまだである。

こんなときには、例外を設けてもいいのではないかと思う。

つまり、真実の追求をするのである。

どうして菅家さんが虚偽の自白に追い込まれたのか、なぜ警察は菅家さんの供述を信用しなかったのか、裁判所はDNA鑑定以外の供述などを無視したのか、これらを思いっきり明らかにするのである。

17年半人の自由を奪ったことを考えれば、そのくらいのことはしてもいいだろう。

(ちなみに、『善き人のためのソナタ』のラストシーンは最高です。ぜひご観賞を!)
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ユハ・クリステンセンさんという人

去年の10月20日の記事で、アチェ和平合意のキーパーソンとなりノーベル平和賞を受賞したアハティサーリさんのことを書いた。「どうして彼にそんなことができたのか。」とも。

動いた人がいたことを知った。ユハ・クリステンセンさんというフィンランド人。彼がインドネシア政府、GAM双方に人脈を持ち、アハティサーリを引っ張り出した人だということをこの本で知った。

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ユハさんは元々言語学者だった。1985年から5年間、やはり言語学者の奥さんとともにスラウェシ島のマカッサル(当時はウジュン・パンダン)で暮らした。帰国してからは、企業のコンサルタントとしてインドネシアを訪れる機会を得た。その間、紛争地域への関心を抱くようになる。

“安定を創り出すことができれば、他の問題に集中して取り組むことができる。例えば、新しい疾病、環境破壊、エネルギーの枯渇といった問題にね”

初めてアチェを訪れたのは2002年10月。ウレレの海岸を歩き、たちまち彼はアチェに“恋をした”と言う。丘、海岸、美しい街、親切な人々、食べ物すべてに。

アチェ和平を模索する動きはこれまでもたびたび行われてきた。2002年にはアンリ・デュナン・センターが調停役となり、「敵対行為の停止についての枠組み合意(COHA)」がなされていた。

しかし翌年武装警官とGAMが衝突、停戦監視団が襲撃を受ける。2003年5月、東京で開かれる復興和平会合に参加しようとしたGAM交渉団員が拘束され、COHAは決裂する。その夜、メガワティ政権は軍事非常事態宣言を発した。

ユハが活動を始めたのはその直後である。

ストックホルムに亡命しているGAM幹部と会い、パワーポイントで自分がどういう人間で何をしてきたか、なぜアチェに関心を抱いたのかを説明した。

12月には、後にユスフ・カラ副大統領からアチェ和平の特命を受けるファリド・フサインに会う。GAM幹部を知っていると話すと、ファリドは驚き、興味を示した。

ユハは、GAM・インドネシア政府双方と徐々に信頼関係を築いていった。

2004年クリスマス、ユハはヘルシンキから、和平交渉への招待状を両者に送る。津波が襲ったのはその2日後のことである。

※  ※  ※

「時の運」は確かにあった。
2004年秋、アチェ問題の進展を望むスシロ・バンバン・ユドヨノが大統領に、ユスフ・カラが副大統領になった。
GAMも戦いに倦んでいた。

それらすべてを勘案しても、ユハの行動力には端倪すべからざるものがある。一民間人がここまでできるのかと驚嘆する。いや、一民間人だからできたのかもしれない。自らの信じるところを貫くという強い意志と、その実現のために熟考された戦略、そして限りないオプティミズムがこの歴史的な偉業を彼になさしめたのだと思う。

参考:ジャカルタポストの記事



つげ義春の祖父

  • Day:2009.10.04 09:09
  • Cat:
「私の祖父は一時泥棒をしていた。」

こんな書き出しで始まる短い回想記がある。つげ義春の「万引き」というわずか3ページの文章だ。短いながらしかし、この文章には思わず笑ってしまい、ホロリとし、残酷さも感じるという3つの娯楽要素が詰め込まれている。

つげ義春が小学校4年生のころ、祖父は千葉県の横芝駅前の木賃宿に住み、漁網を盗んでは売りさばいていたという。祖父が大原のつげの家に時々来ると、つげは祖父に手塚治虫のマンガ本を買ってくれとねだった。祖父が盗みで得た金を持っていることを知って。

そんな祖父の泥棒生活も2年で破たんする。逮捕されて群馬の刑務所に入れられた。服役後の祖父は大原の家に同居した。つげはなおもマンガ本をねだる。そして本屋へ行き、字の読めない祖父に欲しい本を指差し、「間違えんなよ」と言って外へ出る・・・。

結末はお読みいただきたい。新版 つげ義春とぼく (新潮文庫)

※  ※  ※

私の母は横芝で育った。今でも小母の住む実家がある。私も子供のころから横芝にはよく行ったので、駅前の木賃宿はたぶんこちらではないかと思う。

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