複数年度主義はどうあるべきか

  • Day:2009.09.29 15:19
  • Cat:時事
9月21日の記事の続き。複数年度予算の制度設計は意外に難しい。

以下は素人の考えである。

たとえばダムを造る3年間のプロジェクトがあるとする。

1年目:20億円
2年目:80億円
3年目:50億円

1年目、予算を効率的に使って、18億円で当初予定していた業務を実施することができた。
残りの2億円をどうするか。

単年度主義では残不用として国庫に返納した場合、どういうことが起こるか、あるいは起こるのではないかと懸念されるか。

2年目の予算要求はもう終わっているから、3年目の予算要求をするときのことが問題になる。査定される。財政当局は、1年目に10%の予算節約ができたのだから、3年目は45億円でいいのではないかと言う。いや50億円必要なのだと説明するが、財政当局からは更に、1年目は積算が過大だったのではないかと言われる。仕方がないので、1年目の積算が過大ではなく、予算を節約できたのはこうこうこういう特殊な理由があったためで、これは3年目には期待できないので当初積算どおり50億円要求する・・・という「後ろ向き」の資料を深夜まで作らなければならない。

これを避けるために一番簡単な方法は、1年目に予算を使い切ることである。

※ ※ ※

ではどういう複数年度予算制度にすればよいのか?毎年10%ずつ予算を節約したとして、三つのケースを考えてみる。

1.1年目の余り2億円は国庫返納とする。決算は翌年度7月末なので、2年目の予算はすでに決定している。その80億円はそのままとする。3年目の予算要求時にも1年目の実績を基にした査定はしない。2年目の予算が8億円余ったとしても、3年目の予算は50億円のまま。3年目に5億円余れば、3年間で135億円を使ったことになり、10%の節約。

2.1年目の余り2億円を、2年目の80億円に上乗せして82億円とする。2年目は72億円を使い、累計で10億円余る。それを3年目の50億円に上乗せして60億円とする。つまり3年間で150億円という予算は変わらない。3年目に45億円使って15億円、10%の節約。

3.1年目の実績をもとに、2年目の積算単価を見直して、2年目の予算を72億円とする。減額補正予算を組む。2年目はちょうど72億円を使い、3年目の予算は45億円とする。3年目も全額執行し、総事業費は135億円。

ケース2は最も省庁の抵抗が少ないだろう。節約した分が一応繰り越されて不測の事態が生じたときには使えるという安心感がある。変な言い方だが、安心して節約できるのである。しかし無駄な金をプールしているともいえる。

ケース1.と3..は、余った予算を他に回すという大きなメリットがある。違いはいつ回すかということだ。1ではそれが翌年の予算に反映され、3では2年目以降は当該年度の予算に即反映される。

3.が最も望ましいように思える。
しかし、これでは単年度予算と変わらない。今との違いは、省庁が節約を心がけ、残余を国庫返納し、その実績に基づいた単価で積算しなおして翌年度以降の予算額を減額するということだ。

つまりは単年度予算のほうがいいのかもしれない。問題は運用で、人事評価基準を変えることによる省庁の意識の改革ということだ。

※  ※  ※

ダムのようなプロジェクト型の事業については、予算節約のために談合を排除することや、華美な仕様を避けるというインセンティブが働く。品質保証(つまり手抜きさせないこと)についても、罰則である程度担保されるだろう。

しかし、生活保護のような給付型事業について、予算の節約を人事評価に結び付けることは少々慎重に行わなければならないだろう。節約するために敷居を高くしてしまっては元も子もない。



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夜の六本木

  • Day:2009.09.28 18:07
  • Cat:計画
六本木ヒルズにある森美術館は割りと好き。

夜10時までやっている。
写真を撮ってもいいというのもすごい(今の展示だけかも)。
すいている。

これで500円くらいだったら最高なのだが、実際は1500円。

アイ・ウェイウェイさんという中国の芸術家の作品展を見てきた。

画家とも彫刻家とも映像作家とも建築家とも言える、よくわからない人だ。

作品もよくわからない。

一辺が1メートルのこげ茶色の立方体がある。いいにおいがする。プーアール茶の塊だ。

天井につるされた竜のオブジェがある。デイパックを大量につなげてあった。

丸い穴の空いた箪笥のようなものがドミノのように並んでいる。穴の位置が微妙にずれていて、歩くと月の満ち欠けのように見える。

わからないけど面白い。次の部屋には何があるのだろうかとわくわくする。

彼のことばが飾ってあった。

「クラフトマンシップや匠の技をつきつめて行くと、それは手仕事の単なる技術に留まらず、素材の本質そのものを追い求める事であり、木や石という素材を問い、試す事だと気付く。 我々の物の見方はそれによって変化する。」

アイ・ウェイウェイ展


この人のブログにいい写真がたくさんあります。引用した言葉もここからペーストさせてもらいました。ありがとうございます。

遥かなるクルディスタン

数年前トルコを旅行した。
半分パッカ-気分で、イスタンブール、カッパドキア、エフェスを巡った。
日露戦争以来トルコは親日的な国と言われる。バスで出会ったおじさんは私が日本人だと分かると相好を崩して歓迎の言葉を発してくれたのもそのせいなのかもしれない。

いかなる国も問題を抱えている。日本人にフレンドリーなトルコもその例外ではない。クルド人にはアンフレンドリーだ。

『遥かなるクルディスタン 』(イエスィム・ウスタオウル監督)ではその肌の色の濃さ故にクルド人と間違われたトルコ人青年メフメットが、知り合ったクルド人の男ベルザンと友情を深め、彼が殺害された後、遺体を故郷に運ぶというストーリーだ。クルド人の住まいのドアに赤ペンキで書かれる「×」が恐ろしい。ベルザンの死んだ夜、部屋で狂ったように踊るメフメットの姿がまた印象的だ。

非常に恥ずかしい話だが、私ははなから、メフメットがクルド人だと思ってみていた。イズミール近くのティレ(クルド人地域ではない)出身だという話は出てくるが、それは彼の親か祖先がクルド人地域から移住したのだろうと推測していた。解説を読んで初めてメフメットがトルコ人だと知った次第。

ことほど左様に先入観とは恐ろしい。

トルコはいい国だと日本人旅行者は口をそろえるが、そうでもない。過去に征服し、併合した他民族を内に抱える国に共通する問題を抱えている。「テロリズム」への恐怖からくる過剰な弾圧だ。

予算の単年度主義

  • Day:2009.09.21 22:10
  • Cat:時事
9.11の記事に予算の複数年度主義について書いた。「単年度主義」で検索された方が多かったのと、少し思慮の浅い部分があったので追記させていただく。

私が、現在でも行われているといった複数年度主義=国債案件というのは正確には単年度主義の粋を出ていない。

たとえばダムを造る3年間のプロジェクトがあるとする。

1年目:20億円
2年目:80億円
3年目:50億円

国債案件では、こういう風に次年度以降の予算額が宣言される。役所ではこれを「目出し」と言う。次年度以降の予算はもちろんその年の予算が国会で承認されたからなのだが、いったん始まった事業はよほどのことがない限り進行する。そもそも決定するときに複数年度に亘って予算を使うということを覚悟している。

これを私は「複数年度予算」と説明してしまった。

もっと大事なことに今日、気づかされた。

「繰越」である。

「単年度主義」の最も重要な特徴は、繰越を認めないことである。

今年度の予算で余った分は、「残不用」として処理される。国庫に返納されるが、単にそれだけだ。むしろ、予算を使い切らなかった担当責任者は、国民(=国会)から付託された事業を実施しなかったという理屈で評価が下がってしまう。これでは「預け」が横行するのも仕方がないかもしれない。

本来の意味での「複数年度主義」とはこれと反対、つまり繰越を認めることだ。節約すればする分、次年度の予算としてそれが確保される。かつ、節約することが人事評価につながる。

前回も書いたが、当然のことである。

曼珠沙華

  • Day:2009.09.20 16:43
  • Cat:
manjushage


蛇園の還来寺前で。

持続する意思 山口加奈子インタビュー(2)

  • Day:2009.09.18 09:33
  • Cat:魅力
blackcatB


警戒するしっぽと振り向いた眼が、細密な背景と相俟って緊張感を滲ませている。
画家とはまず、「よく観察する人」だと思う。

「ビデオの場合はプレビューして初めて、こんなことが映っていたんだと気づくことがある。それが意外に面白いのでなるべく活かして編集する」というようないい加減な製作態度とは違う。眼に映ったものと、脳に浮かぶものを描いていく。

紙に、キャンバスに定着させるには技術が要る。画家の第2の条件は、デッサン力や技法であろう。

高校を卒業したKANKOさんは美術教師を目指して美大へ進学しようと浪人した。石膏像を何百枚もデッサンした。
そして美術教師のあまりの狭き門に、進学を諦める。

しかし、絵を描くことは続けた。蕎麦屋で働きながら描き続けた。

「進学した後輩たちの絵を見ると、美大で得られることはあるのだと思う。でも・・・」

飲み込まれた言葉は何だったのか。
画家の第3の、そして恐らくは一番大切なものは、学校に行かなくても磨くことができる、という言葉だったのではないかと思う。

「独創性」とか「画風」とか「想像力」という言葉で呼ばれるもの。

10年働いた職場を辞めたのは2年前。絵に専念しようと思ったという。
そして30歳の誕生日からブログを書き始めた。ほぼ毎日、日々の出来事を綴るときは、自分と向き合う大切な時間である。

最新記事には、11月の作品展のお知らせが載っている。
KANKOの大切な時間

抱えるもの―山口加奈子インタビュー (1)

  • Day:2009.09.16 20:54
  • Cat:魅力
それまで住んでいた家を、建て直すとき、あなたは何をしようと思うだろうか?

思い出の柱をとっておく?
障子紙を思いっきり破く?
写真に収め、アルバムに貼る?

ふすま、壁、床・・・ 山口加奈子はありとあらゆる平面に絵を描いた。幼稚園児の時だったと言う。何を描いたかは覚えていない。描いたことすら記憶の彼方にある。

そのKANKOさんに絵を見せていただいた。
前から気になっていた、『光を探して…~生きるⅡ~」である。

hikariwo
実物は想像以上に大きかった。

一見して、胎内帰還願望を抱く少女が、耳を覆っている様子が描かれていると思う。
だがはたしてその両手は、耳をそばだてているのか、塞いでいるのだろうか?

その問いを発しようとして、慌てて口ごもった。
作者に、その作品の意味・解釈を聞くほど野暮なものはないのだ。

「見た人が感じたままに感じれくれればいい」

私も拙映画についていつもそう答えている。


いまさらながら思うのは、絵というのは日常空間に侵入するということだ。
映画は日常を闇の空間に変えてからあらわれるが、絵は日常のその他の部分を残しながら現出する。

そしてこれほど大きいと、仕事場の雰囲気が一変する。

カエルくんは魚がお嫌い

4つの食材のうち、蚊と小蝿がなくなっていた。
小ハトムシとジャコはお口に召さなかったようだ。それとも遠慮しているのか。

feed


カエルの皮膚は保護色に染まる。
漂白剤のキャップの上にいると、ピンク色になってくる。アイシャドウ?

pinkfrog

複数年度予算は実現可能か?

  • Day:2009.09.11 19:47
  • Cat:時事
「どうして予算を使い切らなければならないのですか?」

数年前新入職員にこう聞かれた。当初予算の執行にやっとめどがたったときに、補正予算が追い討ちをかけたのである。私の返事は、情けない。

「日頃から実施したい事業のアイデアをたくさん作っておいて、こういう時に喜んで使うのだ」

答えになっていない。窮状を訴える人に聖書の言葉をひくようなものだ。実際には優良案件の球は底をついていた。

千葉県で30億円の不正経理が発覚した。その手口は「預け」など6とおりあるといい、いかに役人が頭がいいかを物語っている。

その背景にあるのは予算の単年度主義と予算額の大きさが評価されるという人事システムである。年度内に使い切らなければならない。国からの補助金はたくさん来るし、困った困った、余ったらカッコ悪いし、来年度予算が減らされるかもしれない、エエイ!業者に預けよう、となるのである。

民主党政権が「官」のあり方を変えようとしているのは興味深い。①効率的な予算執行を人事評価に反映させることや、②事業によっては複数年度予算を導入しようとしている。

②については、現在でも国債案件という方式で実施されている。数年間かかる建設プロジェクトなどは、将来年度の予算を確保している。もちろん国会で予算が通らなければ話は別だがそんなことは今までなかった。問題は今年節約したからってなんのメリットもないことだった。だから眼目は①だといって差し支えない。

予算を使わないことが評価されるとなると、仕事をしなければいいとなってしまう。だから、仕事はして、しかも安いコストで実施する人が評価される仕組みを導入するということだ。なんということはない。民間ではみんなやっている。

例えば制作会社が1000万円のテレビ番組を作るとする。テレビ局への予算見積もりは管理費も含めて1000万円だ。できた番組のクオリティが同じだとすれば、これを700万円で作ったプロデューサーは800万円かけたプロデューサーよりも評価され、たくさんボーナスをもらえる。当たり前の話だ。

役所も事業ごとの見積もりと決算をつき合わせる習慣をもつべきだ。


!と餌付け

「もうひとりいるよ」

「え!」

「風呂場に」

kero2


ほんとだ。
いくら我が家にハエやカやクモやゴキブリやガやアリやウマオイやコオロギが大小取り混ぜて棲息しているからといって、このままでは我が家は 〽カエルの唄が、聞こえてくるよ になってしまうかもしれない!

でもとりあえず、

「名前は何としよう?ピョンキチ(古い!)?」

「ケロヨン(もっと古い!!)がいいんでね?」

ケロヨンは頭に血が昇らないのであろうか。


さて、台所にいるカエルくんである(余談だが昨夜というか今朝未明NHKで、ホッケ柱という凄い番組をやっていた。いつもは海底にいるホッケが、3月になると潮目に集まるプランクトンめがけて海面に集まり、その様は「柱」のようになるのである。こんなすごい番組が未明に放送されているとは、恐ろしい国である。さらに、コメンテーターとしてあの明るいさかなクンが出ていたのは言うまでもない)。

先日と同じ場所、同じポーズだが、ず――――っとこのままだったわけではない。深夜に水を飲みにキッチンへ行くと、姿を消していたことを私は知っている。

餌付けしてみよう。蛙に餌付けする人間は私が初めてかもしれない。因みにうちの前に住むNさんは蟻に餌付けしている。

feeding


手前はジャコ。後は蚊やハトムシの小さいのやら。結果は刮目して待つべし!

※  ※  ※

それにしても、ケロヨンはいったい何のメタファーだろう。思い当たる節はあるが、首肯したくない。そういう時ってありますよね?

卓話

銚子ロータリークラブで卓話なるものをさせていただいた。テーブルスピーチの訳なのだろう。

audienceは地元財界人30数名、話のテーマはスーダンのこと。

アメリカのバレード誌が2006年に発表した世界最悪の独裁国家はスーダンだった(2位は北朝鮮)。平和基金会というシンクタンク(米)の発表する失敗国家(注1)の常連でもある(2009年は1ソマリア、2ジンバブエ、3スーダン)。

ことほど左様に評判の悪いスーダンだが、先日紹介した言論の自由ランキングでは169カ国中140位と“比較的”マシだ。言論の自由がある社会主義国は知らないが、言論の自由が少しある軍事独裁国家は存在するのだ。

去年おととしと計50日のスーダンロケを行った。もちろん取材ヴィザが取れるまでには時間がかかったし、その目的によっては許可されないこともあるだろう。が、入国してからは何回か警察や軍事務所アメリカ大使館に連れて行かれたこと以外は撮影に支障はなかった。収録済みテープを検閲されたこともない(注2)。だから私の実感も、言論の自由についてスーダンは最悪なところではない。ついでに言うと、役人から意味不明な金品を要求されたこともない。

人々は平気で政府を批判する。南の人がハルツームを批判するだけでなく、南部政府の批判もする。それもカメラの前でも話す。非常に健全である。ヨセパさんは「政府は頼りにならない」と言い、ロダさんは南部軍がジュバに侵攻した時(注3)の恐怖を語ってくれた。

考えてみれば当然なのだが、『アブバとヤーバ』が完成できたのはスーダンに言論の自由がある程度あったからである。この国は独裁国家で失敗国家かもしれないけど、言論の自由が少しはある。そして、それがあったからこそ、ヨセパ・ロダ夫婦と交わした言葉に重みを感じることができたのだ。

言論の自由を失うことは「心」を失うことに等しい。そこは「世界の終り」だ。(注4)


(注1)失敗国家とは、 次の三つを欠いている国だという(Wikiより孫引き)
* 主権に基づく権威(正統性) (sovereign authority)
* 意思決定を行うための目にみえる組織 (tangible organization of decision-making)
* 統合の象徴となるべきもの (intangible symbol of identity)

(注2)20数年前韓国の空港ではテープチェックが必要だと言われ、出国を一日延ばしたことがある。

(注3)1992年7月7日、「サバ・サバ」と呼ばれている。

(注4)いったん失われた「心」を取り戻すことができないわけではないことは昨日の記事で書いた。

システムとファクトリー、やみくろ

  • Day:2009.09.09 20:20
  • Cat:
1985年8月25日6刷というのだから、就職して2年目の金がないときに1800円で購入している。若い時は本の価値をよく知っていたのだ。世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドを再読した。卵と壁について書いてから、読み直したいとは思っていた。

「私」の住むハードボイルド・ワンダーランドと、「僕」の住む世界の終りで交互に物語が進む。「私」はシステムに属する計算士だが、ひょんなことからシステムと対立するファクトリーに狙われ、システムにも居場所がなくなる。「僕」は壁に囲まれた心のない人たちが住む「世界の終り」にどこからともなくやってきて、まだ「影=心」をひきずったまま、図書館で一角獣の頭骨に潜む夢を読む仕事を与えられる。「私」には心を失う時限装置が課され、「僕」は影=心と別れて、心を失った図書館の彼女と生きる道を選ぶ。

世界はメタファーに満ちている。

システムは体制、ファクトリーは反体制、やみくろは闇社会のメタファーだ。どっちに転んでもいいことはない。心は失われる運命にある。唯一の希望は世界の終りで「僕」が選択する道、手風琴の和音で音楽=ダニー・ボーイ=心を思い起こし、彼女が母親から引き継ぐ「心」の可能性に賭ける。

※  ※  ※

どっちに転んでもいいことはない状況で、どう生きていけばいいのか?おそらくは村上春樹がここ数十年考えてきたことはこの一言に尽きる。生きにくい世の中で、「心」を失わずに生きていくにはどうしたらいいか。この小説ではそれが、自分の心の完璧さを求めることではなく、図書館の彼女の失われたはずの心に再生の萌芽を見出すことであり、『海辺のカフカ』では佐伯さんの忠告に従うことだった。そこに希望という名の隘路がある。とても選択しにくい道だけど、それを意識して選んでいこうというのが彼のメッセージだ。

※  ※  ※

世界はメタファーに満ちている、

オシロイバナもカエルくんも。

カエルくん

kero


我が家の流しにはカエルが住んでいる。

「ひと月できかないんじゃないかね」母は言う。

蚊や小蝿、蜘蛛を食べているのか、その瞬間を見たことはない。

名前をつけようとしたが、「カエルくん」としか思い浮かばない。

見かけないと、さびしく想うようになった。

米原万里 『オリガ・モリソヴナの反語法』

  • Day:2009.09.05 10:31
  • Cat:
1 エリトリア
2 北朝鮮
3 トルクメニスタン
4 イラン
5 キューバ
6 ミャンマー
7 中国
8 ベトナム
9 ラオス
10 ウズベキスタン

国境なき記者団が発表している、言論の自由ランキングワースト10である(2007年)。社会主義・共産主義国家と軍事独裁国家が並んでいる。言論の自由はグローバライズされていないことがよくわかる。まだまだやることはたくさんあるのだと思わせる。

169か国のベスト1はアイスランド、日本は37位である。日本のマイナス評価としては記者クラブの閉鎖性、プラス評価としては言論機関に対するテロが減少してきたことが指摘されている。

軍事独裁国家は別として、なぜ社会主義・共産主義国では言論の自由がないのか?あるいは実現できないのか?これはこのところ頭の片隅にこびりついて離れない謎である。

一応の答えはある。「党の無謬性」だ。
共産主義の実現を目指す国家では、共産党が唯一正しい指導者であり、党の決定に誤りはないとされる。だから、党の政策を批判することは批判者が間違っており、反革命的な行為である。従って、党への批判は許されない。

いつも不思議なのは、そうでない共産党というのがなぜ現れないのだろうかということだ。人間が完全でないことを認め、その人間の集団からなる共産党も完全ではないことを前提とし、批判に耳を傾け、対立政党の存在を認める・・・そんな共産党があってもいいのではないかと思う。プロレタリアート独裁を掲げることが共産党の本質ならば、それは存在論的に矛盾しているのだろうか?でも現に共産主義国の独裁者はプロレタリアートではないではないか!

しかし実際には、権力を握った共産党は一党独裁体制を敷き、世論から遊離し、言論弾圧とそれを担保する暴力装置(収容所)を装備する。オリガ・オリソヴナが生きたのも、そんな時代のソ連である。

※  ※  ※

1960年、シーマチカこと弘世志摩は在プラハソビエト学校に編入し、そこでオリガ・モリソヴナという名のダンス教師と出会った。70歳はとうに過ぎていると思われる彼女は自称50歳、生徒を叱責するとき、「天才少年!」などと褒め言葉を使う。これが「反語法」だ。古典的なフランス語を話すエレオノーラ・ミハイロヴナは若き日のグレタ・ガルボのような服装で、「オールド・ファッション」と呼ばれる。さらに東洋系の顔だちをした踊りの天才少女ジーナは、オリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナの二人を母と呼ぶ。

ソビエト学校に5年近く在籍したのち、シーマチカは日本に帰国する。そしてソ連崩壊後の1992年、モスクワで級友カーチャと再会、3人の人生を辿っていくことになる。関係者を訪ね、オリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナはソ連国民でバイコヌール平原(現カザフスタン)の労働強制収容所に入れられていたことを知る・・・。

「この冷酷非道な嗜虐性は、一体どこから発するのか。いかなる革命的原理に基づいて、これほどサディスティックに人々を虐待するのだろうか。ドイツ・ナチスの犯罪者たちは裁かれ、今もその責任を追及され続けている。ソビエト・ロシアにおいては、今もって平(ひら)のNKVD職員は誰一人として公に裁かれてはいない。投獄された人々を虐待し、殺した看守たちも、死刑執行人たちも、収容所の責任者たちも……のうのうと安泰な年金生活をおくり、名誉に包まれて生を全うしていく。」

スターリンによる「粛清」というものがどのように行われたのか、上に引用した一節は「祖国に対する裏切り者の家族の一員」として裁かれた妻たちが、収容所へ送られるまでを過ごすブティルカ監獄での描写の後に続いている。そこでは「用は衆目のもとにたさなくてはなら」ず、「気が狂いそうな無為」だけがあった。

おそらくはこの一節が、筆者の最も伝えたかった二つのメッセージのうちの一つである。粛清の非道さを訴えること、現在でも誰も責任をとっていないことを糾弾することは確かに著者の言いたかったことである。

しかし、これだけだったらこの小説の魅力は失われる。というか単なるアジビラに堕してしまう。この作品に豊かさを感じるのは、もうひとつの、主軸となる要素に貫かれているからだ。爆笑を誘うダンス教師の反語法と、没落貴族の悲哀を体現するオールド・ファッション、二人とジーナの特殊な関係が興味深い物語として展開されているからこそなのだ。どんな状況でも、ベストではないかもしれないが精一杯の選択をしてきた人間への連帯を表明したくなるような物語が綴られているためである。

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)
(2005/10/20)
米原 万里

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あなたの、私の、物語

  • Day:2009.09.02 12:01
  • Cat:
地下鉄サリン事件の被害者・関係者らへインタビューした、村上春樹著『アンダーグラウンド 』(講談社文庫)を読む。

特にあとがきの「目じるしのない悪夢」には村上の思想が丁寧に述べられていて興味深い。

90年2月、オウム真理教が衆議院選挙に大挙して立候補したとき、千駄ヶ谷駅前で信者たちの踊りを見た著者は、そこに「名状しがたい嫌悪感」を感じ、その「もっとも見たくないもののひとつ」を「意識的に排除」した。

後になって、そう感じたのはなぜだろうと考えると、それが「実は自らのイメージの負の投影」であり、「「こちら側」=一般市民の論理とシステムと、「あちら側」=オウム真理教の論理とシステムとは、一種の合わせ鏡的な像を共有していたのではないかと」思うに至る。

この仮説が、「物語」をキーワードとして展開される。

「物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。」

人は誰でも自我を持ち、固有の物語を紡ぎだしている。そして、自我を取り囲む「世間」は自分の価値観に彩られた「物語」のようにはいかない、あるいは実現させてくれない、と嘆く。嘆きつつ、諦めたり、折り合いをつけたりして生きていく。それは常に満たされない状態であり、しんどいことこのうえない。

このしんどさから抜け出す方法がある。「自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに身を委ねる」(ラッセル・バンクス『大陸漂流』)ことである。その時、「人生が物語としての流れを失」う。

オウム真理教の信者たちは、自らの物語を麻原彰晃の物語に仮託した。そして自らの物語は自らの物語ではなくなった。彼らの(姿や踊りや歌)から、それはあからさまに感じ取ることができる。

そして村上が「合わせ鏡的な像を共有して」いると述べているのは、「こちら側」でも誰かの「物語」に自分の「物語」を委ねている現実があるということを意味している。

「あなたがいま持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもれない誰か別の人間の夢ではないのか?」

この疑問が解消されていないことが、「後味の悪さ」を捨てきれない理由だという。

※  ※  ※

村上が62人の被害者にインタビューを行ったのは、「こちら側」の「物語」に触れるためだったのだろう。62人の「夢」を描写したいと思った。その内容は、1995年3月20日の朝、地下鉄で何が起こったかということだけではなく、被害者一人ひとりのバックグラウンド(いつどこで生まれてどんな風に育ってきて、どんな仕事をしているか、どんな人生観を持っているか)を知らせてくれる。しかし、このインタビューで語られていることが、それぞれの「物語」=「夢」なのかどうにもしっくりしない。

ある者は昏睡中娘の「初孫の顔を見ないでどうすんのよ!」という言葉を鮮明に覚えており、ある者は事件の翌日、妻に離婚しようと伝えている。

確かに個々人の「顔」が見える話がある。それぞれが送っている暮らしに突然訪れた「事件」の凶暴さも身にしみる。しかし、これらは事実の集積であり、「物語」=「夢」ではないのではないか?

※  ※  ※

「物語」はインタビューの中で直接語られてはいない。複数の人々が語る事実の断片から、物語を浮かび上がらせるという作業が必要だ。

私が読み取った物語はたとえばこんなことである。

千代田線北千住発代々木上原行きの電車でサリンが気化し始めたのは新御茶ノ水駅の少し手前、実行犯は林郁夫である。大手町、二重橋前、日比谷、霞ヶ関と電車が走る間、サリンは流れ続けた。霞ヶ関駅で駅員が包みを処理し、電車は国会議事堂前まで進んで運転を中止した。

東京の朝のラッシュは私の最も嫌いなものの一つである。住まいを決めるときには必ずラッシュの酷さを第一条件に考えていた。乗客はいらいらし、人身事故で電車が遅れようものなら舌打ちが聞こえる。その大半が飛び込み自殺だということは分かっていながら。そんな状況では異常事態が起こったときでも一刻も早く電車を動かすことが何よりも優先される。毒ガスが車内に蔓延していても、電車は走らされた。効率性の物語と言っていいのだろうか。インタビューイーの一人は、霞ヶ関から国会議事堂前の一区間で被害に遭っている。

もうひとつ。

日比谷線築地駅で、「助けてくれ!」という女の人のすごく大きな声を聞いた男性は、単なるケンカだろうと思った。「朝からいったい、何をやっているんだろうな?」と。改札を出るときにサラリーマン風の男が「うわ、気持ち悪い。どうしてくれるんだ。」と怒鳴っているのを見て、「何をオーバーなことを」と思った。

丸ノ内線の後楽園駅の辺りで、ある女性は「息苦しさ」を感じ、窓を開けた。周りの人たちは全く反応を見せなかった。何も言わず、ほとんど何も反応しない。コミュニケーションなんて皆無。アメリカでの生活経験のある彼女は、アメリカだったら大騒ぎになるだろうと思った。しかし誰も一言も発しない。

ここから読み取れる物語は、仕事に遅れてはいけないという勤勉性、他者への無関心、「車内ではおとなしくしていよう」というマナー、話しかけることへの気後れ、なのだろうか。

※  ※  ※

実際には私はあの日、連休の谷間で有給休暇をとってアパートでごろごろしていたわけだが、もしもその場にいたとしたら、いずれの人達とも寸分違わぬ行動をとっていただろうと思う。息苦しくても我慢し、窓を開ける女性を眼の端でとらえるだけで、「助けてくれ!」との声をやりすごし、倒れかかる男性に助けの手を差し伸べることもなく、液体を新聞紙で拭いて、電車を発進させただろう。

それらの行動の原理となっているものを「物語」というのならば、それらの「物語」は確かに・・・自分のものではないのである。
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