10桁と11桁の違い

  • Day:2008.06.27 07:44
  • Cat:時事
定年後は何をしたいかという質問に、よくあるのが「裁判の傍聴」。
25日の東京地裁423法定も、20の傍聴席で3,4人の方はそれを実践されているようにみられました。

私も久々に傍聴させてもらいました。
事案は「覚醒剤取締法違反」2件です。
被告はいずれも20代前半の女性、一人は使用、一人は所持が訴因です。

二人とも公訴事実を認めており、争点は執行猶予がつくかどうかです。
いずれの弁護士も、初犯であること、反省していること、親が監督することを強調し執行猶予を確実なものとしようとしていました。

これに対して検察官が確認したのは、「売人の住所・勤め先を知っているのか否か。」
知らないと答えると、「売人の携帯電話番号を消去すること」を約束させました。再犯を防ぐためでしょう。

被告が売人の電話番号を覚えているか否かという点については一切言及されません。携帯から番号を消しても、覚えていたらどうなるのでしょうか?それは言わない約束なのでしょうし、消すことが二度と連絡をとらない意思を表していると考える一種の儀式なのかもしれません。

私も最近は電話番号を覚えなくなりました。
それまで最大10桁の番号だったのが、携帯では11桁になりました。
10桁と11桁の間には、深くて飛び越えられない川が流れているのではないかと思います。

ただ、ひょっとしたら電話番号というのは覚えるものではなくなったのかもしれないと、思い至ります。携帯電話が普及して以来、番号はすべて携帯が記録していてくれる、覚えておく必要のないものとなったのでは。アドレス帳も不用になりました。覚えておかねばならないのは自分の番号だけですが、それすらも覚えずに、他人の携帯にかけてそこに表示されるもので再確認するという有様です。

東京23区の市内局番が全て4桁になったのは1991年1月1日でした。まだその頃は、03以外の8桁を覚えるようにしていました。
そう考えると、090と080を除いた8桁の番号を覚えることはできるはずです。
ですからこの変化は、能力の問題ではなく意思の問題なのです。

記憶する力が使えば使うほど強化されるものだとしたら、この変化はちょっと我々をスポイルしてしまうものです。
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派遣労働者の孤独

秋葉原事件の直後、2チャンネルには派遣労働の問題についての書き込みが多数あり意外な印象を受けました。アメリカの同種の制度と比較しての冷静な批判や、経済界への不満が溢れていました。

加藤被疑者がああいった大変な罪を犯した動機は、いろいろな要因で形成されているのでしょうが、不安定な環境が一因なのだろうと私も思います。

私が以前働いていた職場でもたくさんの派遣労働者が働いていました。私自身、複数の派遣会社に人選依頼をし、「職場訪問」を受けたこともあります。

その職場はよくも悪くも優しいところでしたから、派遣の方達も一緒、という雰囲気はありました。が、彼女たちが(ほとんど女性だったので)どのように感じて日々働いていたのかと思うと心許ない思いです。

給与面や男女雇用機会均等法の抜け道という問題もあるでしょうが、労働者派遣システムの最大の罪は、雇用者と指揮命令者が異なることです。自分の働いている職場に帰属意識が持てない、上司に直接文句を言うことができない、同僚の正職員と上司(指揮命令者)の悪口で盛り上がり連帯感を感じることができないことです。派遣先の組合にも入れませんし、孤独感を覚えないのが無理というものです。

「人は誰でも孤独なんだから、そこから出発しなければ」と識者は言います。それは正論です。でも、孤独に陥らざるを得ない環境を作っておいてそれはないだろうと考えます。

労働者派遣法が施行されたのは1988年。バブルの頃ですから雇用側の人件費抑制というよりはやはり男女雇用機会均等法の補完的な意味合いが強かったのでしょうか、それとも雇用の流動化を促進するということなのか。その後もっぱら「短期間に調整可能な人件費」として重宝されるようになります。

労働者派遣システムがなければ失業率が増加するとよく言われます。賃金の下方硬直性(景気が悪くなっても賃金を下げられない)の所為で、別システムを導入せざるを得ないのだと。実際そうなのかもしれません。失業者の孤独と、派遣労働者の孤独を比較すれば後者のほうがまだ収入があるだけベターだと考えられなくもありません。しかし、正職員に囲まれていながら感じる孤独は、仕事がなくて一人で味わう孤独よりも残酷なものに思えます。

ある時、同僚に話したことがあります。
「派遣が増えることで、戦後人々が血を流して獲得してきたものをないがしろにしてしまうんではないだろうか?」
彼の反応は覚えていませんが、賛意を得られなかったことは確かです。

格段の負担

前回の続きです。
最高裁はこの問題について、「編集の自由」を尊重して、取材対象者の期待権を基本的に法的保護の対象とならず、次の全てを満たす場合にのみ認められるとの判断を示した。
1.取材協力に格段の負担が生じる
2.取材者が必ず特定の内容で番組に取り上げると説明する
・・・・(以上読売新聞より)

不思議な感覚で未だに整理がついていません。
「編集の自由」が認められたのは、いいことだと思います。
例外として取材対象者の信頼を裏切り、(たぶん経済的時間的な)負担がある場合には損害賠償の対象となるという点もよい。

なのに、結論がしっくりこない。
筋は通っているのに納得できない。
作り方は正しいのに美味しくない料理みたいなもの?

たぶんその原因は、NHKが圧力に屈したのにそれを「編集の自由」という衣でつつんだからでしょうか。もうひとつは、1,2以下の全てを満たすという条件ゆえに、取材対象との約束を明らかに反古にしたことが損害賠償の対象として認められなかったからですかね(読売の記事には「当初の番組趣旨の説明は個人的な意見にとどまるから」と書かれていますが、判決理由もそうだとしたら、はしごをはずされたディレクターはNHKと裁判所から往復びんたをくらったようで気の毒です)。

詳細は知りませんが、ドキュメンタリージャパンのディレクターが、当初の趣旨どおりに番組を放映することができないと知ったとき(つまりNHK上層部の意見に屈したとき)に、取材対象者に説明していれば、あるいはDJが、「ではこの番組はなかったことにしましょう。素材は引き上げます。これまでにかかった実費だけはいただきますよ」とNHKに対応していれば、問題はこれほどこじれなかったのかもしれません。事実DJは制作から手を引いているのですが、そのへんの事実関係がよくわかりません。

番組の「完成度」と取材対象との関係はとても悩ましい問題です。
今回のような政治的な問題が絡まなくても、一応撮影しておいたんだけどいまいちなんでカットするということはよくあります。極端な話、街頭インタビューを十人にして、5人だけ使うなんてことは日常茶飯事ですよね。
街頭インタビューならそんなに負担もかかっていないし、インタビューされた人も「どうせカットされるかも」と思っているでしょうからいいんじゃないという考えもあるでしょうが、やはりそこには「裏切り」があるのも事実ですし、ディレクターは申し訳ないと思いながらカットしているのです。
そして、それが嫌だから撮影対象を絞り込む努力をします。

今回の判決で、「この人には【格段の負担】をかけていないからカットしてもいいよ、という風潮が蔓延しなければいいのですが。

テレビを見始めます

二年近く、テレビを見ない生活をしていました。
理由は、時間がもったいないから。情報の摂取は新聞とネットで十分、むしろ考える時間が必要だと思ったからです。

この二年間で見た番組は「NHKスペシャル」くらい。
巷の話題には、ついていけなくなりました。

考えごとが一段落ついたわけではないのですが、昨日からテレビを見始めました。
最近テレビが面白いかもしれないと思ったからです。
番組そのものが面白いというのではなく、テレビの置かれている状況がちょっとささくれだってきているなと感じたのです。

昨夜は久々に古館伊知郎の「報道ステーション」を見ます。
秋葉原の事件に続いて現れたのが、後期高齢者医療制度についての報道への、自民党からの批判に対する反論でした。とりあえず無関係な役員連絡会冒頭の談笑シーンのあと、「よく笑っていられますね」と古館がコメントしたやつです。彼は、一般論として今のこの状況で、笑っていられるわけないだろうということを伝えたかったとのことです。久々の古館さんの顔はやけに生白くて、眉毛が濃い印象でした。

このやりとりを見ていて、BRCという組織を思い出しました。放送と人権等権利に関する委員会。
NHKと民法が共同で作ったもので、人権侵害事案を受け付けています。裁判を起こす代わりにここに申し立てすると、見解を示してくれるのですね。

そのHPを今日見ていると、前から気になっていることの見解が今日の日付で出ていました。

教育テレビのETV2001が女性国際戦犯法廷を取り上げ、取材対象VAWW-NETジャパンへの事前の説明と異なった形で放映したことに対しての損害賠償請求をした事件がありました。
その高裁判決が去年の1月7日に出たのですが(結果はNHK,NHKエンタープライズ、ドキュメンタリージャパン三者の共同不法行為を認めました)、その判決についてのNHKの報道が、自分達(NHKや政治家)のコメントのみを取り上げていて不当だ、という申し立てをVAWW-NETジャパンがBRCに行ったのです。

それを、NHKのニュース9が報道していたのです。
BRCの見解は、謝罪や訂正放送をするまでの必要性はないが、「本委員会は、被申立人に対し、本決定の主旨を放送するとともに、今後は、放送における公平・公正に十分に留意し、意見が対立している問題については、できる限り多くの角度から論点を明らかにするよう、さらに十分な配慮をするよう要望する。 」というものでした。それを受けて、アナウンサーが「十分配慮していきたい」云々と話していました。とりあえず見解どおりにやりましたよ、という感じです。

それぞれの事件についての判断はここでは述べませんが、この2件の報道に立て続けに接して感じるのは、テレビメディアと政治権力のぶつかっているフロントがここにあるんだなということです。前者は明白に現れています(自民党はテレビ朝日に無期限で党役員会と役員連絡会の冒頭撮影を拒否する方針だそうです)。後者はNHK対自民ではなくて、NHK・自民党連合vsVAWW-NETジャパンという構図ですが、自民党対ドキュメンタリージャパンと考えればやはりメディアと政治の問題です。

今に始まったことではありません。1993年、宮沢喜一が首相だったときの椿発言(テレビ朝日)は覚えている方も多いでしょう。
ただあの時は細川政権誕生という大きな局面でした。
それがこの二件は、一番組、一コメントについての圧力(または自粛)であり、ナーバスな世の中になったもんだなと感じざるをえません。それとも、古館のコメントで次の選挙が左右されるという危機感があるのでしょうか。

NHK裁判の最高裁判決は明後日です。

自営業のススメ

2月27日の記事「銚子の再生?」で次のように書きました。

「大型店の進出というのは雇用を増やしますが、自営業者を駆逐します。一握りの経営者と圧倒的多数の従業員、私はそのような社会はつまらないと思っています。従業員は言いたいことも言えないからです。」

同じようなことを考えている人を見つけたので、ご紹介。斎藤貴男(ジャーナリスト)が森達也との対談で、最後に「今後の国家を取り巻く社会の展望」についてこう述べています。

「具体的に言えば、自営業がもっと成り立つ社会を目指すべきだと思いますね。それはつまらないことのようですが、放っておくと企業活動というのは肥大化していきますし、そうするとその企業のヒエラルキーの中で人間が規定されてしまう。僕らがまたしも言いたいことを言えるのは、フリーな立場だということがすごく大きい。」
「つまり、お金を貰う先がたくさんあるということですね。一ヵ所しかなければ、本来はただ単に労働の対価としてお金を貰っているだけなんですが、やはり思想から何から統制されますね。それはなにも物書きや映画監督でなくても、いろいろなお客さんからお金を貰えるような商売が成立し、それを上からの給料ではなく、すべて自分で差配できる立場を作ることですね。僕は企業社会をかならずしも否定しないので左翼の人に嫌がられるんですが、やはり少しは企業社会にあったほうがいい。ただ、それしかないという世の中が良くないわけで、普通の人、小さな商売をしている人がこんなにたくさんいる、というのがベストだと思います。誰にも指図されずに、好きなようにものを考えることができる人々ができるだけたくさん増えていくといい。」

「いろいろなお客さんからお金を貰える」ってのはいいですね。

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ムスタファさんの在留資格特別許可を祝う集い

いつもは空気と同じように意識していないけど、時々顔を出す、しかもすごく困ったときに。これな~んだ?

親とか帯状発疹とかいろいろ思い浮かびますが、今日の正解は、「国」です。

日本人として日本に暮らしていると国のことを意識することが少ないですが、スーダンでMP(軍警察)に連行されたりすると、違う国にいるんだなあとひしひしと感じます。

今夜はトルコ国籍のクルド人、ムスタファさん一家が在留特別許可を得たお祝いがありました。

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青い服がムスタファさん、その右緑の服が奥さんのエヴァさん(フィリピン国籍)、前右がケーシーちゃん、左隣がシランちゃんというなんとも微笑ましい四人家族です。
クルド人の在留資格が認められたのは2例目だそうで、「針の穴」を通すような快挙とお祝いのスピーチでも言われていました。

私がこの家族と知り合ったのは、左の「フィルモグラフィ」にある「尾方美樹の方法と夢」を制作したことがきっかけです。4人とも尾方さんのお芝居に出演、特にシランちゃんは主演女優として名演技をしてくれました。

3月にニュースを知ったときは信じられない気持ちでした。ムスタファさんが日本に来たのは15年前、難民認定申請をしてからでも10年を超えています。彼らはいつも「国の壁」を意識せざるをえず、不安な日々を送っていたのであります。

だいたい国なんてぇものは(とべらんめえになりますが)、人々の生命・財産を守るための最低限のことをすればいいのだというのが筆者の持論ですが、行政組織は何を勘違いしているのか人々を不安に陥れるようなことをしています。ここで言う「人々」とは、単に自国民を指すのではなく、世界中にいる人々のことです。百歩譲って日本国民の利益を守るのが日本国の仕事だとしても、難民認定申請を許可しないことが、日本国民のためになるという論理は机上の空論以外の何物でもありません。

写真の一番左端はムスタファさん家族をこれまで支えてきた織田さん。彼女はお芝居では入管の冷酷な医師を見事に演じていました。その名演技は彼らの心情を慮るあまりの魂の叫びだったのだと、彼女の最後のスピーチを聞いて思いました。お疲れ様でした、そしてありがとう。
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