悼む 山本美香さん

シリアのアレッポで、山本美香さんが銃弾に撃たれて亡くなった。ご冥福を祈るという気持ちにはまだ到底なれない。気持ちが落ち着かない。

医者だったら病人を手当てすることができる、ではなぜジャーナリストは戦場に行くのか?この問いに対して山本さんは明確な答えを持っていた。

「戦場で起こっていることを伝えることが、その戦争の拡大を防ぎ、戦争の終結を早めることにつながる」

後方の「大本営」に置かれた地図、爆撃する戦闘機から見る地上、艦砲射撃する甲板から臨む対岸の煙とは異なって、前線にいるのは粉々に砕かれる生活であり、泣き叫ぶ人間だ。山本さんが報道したいと思ったのはたぶんそのような現実で、それが厭戦気分と戦争終結への圧力につながるという期待をこめていたのだと敬服する。

尖閣諸島や竹島を巡って、原発報道を脇に追いやるように、議論が続く。主権国家としての毅然たる態度が強調される。現実に今の世の中が国家単位で成り立っていること、国家の三要素が主権・国民・領土であることを考えれば、その気持ちは分からないでもない。問題は表現の仕方だ。

戦争とは肉塊が抉られることだ。動きを止めるひとを生む行為だ。山本さんの最後の姿はこのことを教えてくれる。山本さんの姿が頭の片隅にでもあれば、弱腰外交と声高にそしることが賢明な意見表明ではないことが分かる。
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想像力とは思い出す能力のこと

二年前に書いた「心を虚しくして思ひ出すことができない」の続き。

高橋たか子の『蘇りの家』(高橋たか子自選小説集〈3〉)は、息子ほどの年の雪生と暮らす女の話であるが、その主人公が或る日都心で仲間たちと酒席を囲んだとき、想像力のことが話題になった。女は言う。

「想像力、想像力っていうけどね、想像力ってのは、思い出す能力だと思うわ」

当然誰かが反論する。思い出すのは記憶力だろと。

女はなおも続ける。

「ええ、想像力ってのはいわば記憶力なのよ。自分の体験しなかったことの記憶を、思い出す能力のことよ」


女の考えはこうである。

「これまで無数の人々が死んできた。その人々が生きていた時に感じていた思いの一切は、一人一人の存在の井戸の、下の下へと落下していって、どこか共通の、茫漠と広いところに浮游するようになるらしい。井戸の囲いが肉体なのだ。人が死ぬとは囲いのところが死滅することであり、囲いの内にあった思いの一切は、下へ下へと落下していく。
 たとえば、愛し合っていた無数の男女の組があった。その人たちが死んだ後、愛する思いは死ぬことなく、落下していって蓄積されるらしい。同じ思いが何百年もにわたって積り積っていくと、その思いが厚くなっていき、生きものみたいに強く濃いものになっていく。そうして、内なる空に浮いている。多種多様な思いがそんなふうに浮いている。
 人は誰かを愛する時、私のものではないようなものを私のものとして強力にとりこんで愛してしまう。そのことで、そうでない時の自分とは別人のように、自分が過剰にみたされてしまう。」

※ ※ ※

想像する、というとき、私たちはどんな思考回路をたどっているだろうか。
例えば青空に浮かぶ白い雲を見てパンダの姿を重ね合わせるとき、既にみたことのあるパンダという動物の形を思い出している。また、初恋の人の今を想像する時、実際に見聞きした人の人生や書物などで知った人の半生のパターンのどれかを思い出しているのかもしれない。

そう考えると、想像するということはすでに知っている何事かを思い出すという作業だと言える。

しかし高橋たか子はもう一歩進んで、「想像力とは自分の知らないことを思い出す力のことだ。」と言う。

それは白い雲に実在しない生きものの姿を見出すとき、その空想の産物は自分のオリジナルではなく、かつて誰かが創造したことのあるもので、茫漠と広いところに浮游しているその他人の記憶を、その時思い出したということなのだろうか。

そうであれば、小林秀雄が心を虚しくして鎌倉時代を思い出していた、という文章も理解できる。鎌倉時代の比叡のなま女房は何を思い出していたのだろうか。

冬の省エネ

太陽光、風力、小水力もいいけど、冬の省エネはこれが一番楽しいと。

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お湯も沸くし、海辺の薪拾い・薪割りも楽しくて体温まる。

昔デカルトが「我思う故に我あり」と悟ったのも炉辺だ。

炎は人を哲学させる?

始まりと終わり

年の終りに、素敵な言葉を二つ。


よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。(尾崎翠『第七官界彷徨』)


I don't expect my love affairs to last for long.(Madonna "ANOTHER SUITCASE IN ANOTHER HALL")


みなさま良いお年を。

財団法人日本漢字能力検定協会が募集した漢字の中で最も多かったのが「絆」
学生グループが全国の172の大学合わせて1392人の学生から聞きとり、多かったのが「災」

私が思う今年の漢字は、「綻」である。

これまで堅固と思われてきた、いろいろなものの綻びが目につくようになった年だった。原発安全神話が笑い話となったことは最大の綻びだが、他にもある。

例えば司法。
日本の3権のうち、最も腐敗が少ないと思われてきたのが司法即ち裁判所である。
検察の捜査が真実を追求するものではなく、自らの描いたストーリーに合わせて被疑者を自白させるものだということが村木元局長事件によって明らかになったのは去年のことである。
今年は裁判所の訴訟指揮や判断も、なんだ検察の言うとおりやっているだけではないかと思わせる事実が次々と明らかになった。昨年無罪となった足利事件に続き、福井事件の再審が決定された。福井事件の再審決定の決め手は、これまで検察が開示していなかった証拠が開示されたことであった。つまり、最初の裁判では検察に有利な証拠だけしか明らかにされなかったのである。

オウム真理教の松本智津夫被告に対する死刑判決を巡って森達也と江川紹子がラジオで議論していたが、その最大の考え方の違いは、裁判は真実を追求するものなのか、当事者の主張のどちらかに軍配をあげるものなのかというものである。森は地下鉄サリン事件がなぜ起こったのかを、精神を患っていた松本被告を治療してまでも明らかにすべきだったと言い、江川は松本は詐病の疑いが強く、控訴しなかったのは弁護団の戦術ミスであるから一審での死刑確定はいたしかたないとする。

日本の裁判は真実を追求する場ではなく、立証責任のある側が立証できるか否かを判断するものであるとされてきた。その弊害が見えてきた。

一連の原発建設差し止め訴訟、設置許可取り消し訴訟でも司法は常にその安全性(危険性)を推進側の専門家の意見にゆだねて逃げ、判断を放棄してきた。

さらにあろうことか、放射性物質の除去を東京電力に求めたゴルフ場経営者の訴えを、実質的な理由を示さずに退ける判決さえ出ている。

裁判所に対する信頼は今や全くない。

※ ※ ※

もう一つは一部だが最も有力なマスメディア。
一連の原発事故報道で、その体質を皆が知った。大スポンサー東電に不都合なことは報道しない。政府の発表を垂れ流す。疑問に思っていても記者会見で突っ込まない。

こわいのは、これは何も今回の原発事故報道だけだったわけではないということだ。足利事件や福井事件の報道でも、多くのマスメディアは警察発表をそのまま紙面にするだけだったわけで、こんな楽で有害な仕事をしていて「社会の木鐸」でございと誇らしげに闊歩する人や組織は他にはあるまい。

※ ※ ※

「綻」は確かに困ったものだが、希望がないわけではない。

民主党が政権をとって早や二年、多くの人があまりにも稚拙で無能なこの素人集団に業を煮やしているのではないだろうか。私も同じ思いを抱くものではあるが、数少ない好ましいこともなくはない。

総合資源エネルギー調査会の基本問題委員会やコスト等検証委員会の委員に、飯田哲也、枝廣淳子、大島堅一ら、原発から利益を得ていない人たちが多数入った。しかも会議はネットで公開されている。このようなことは、自民党政権では考えられなかったことであろう。

「綻」は民主党の政権運営の方針から出たコマかと思う。単にグリップが甘かったわけではあるまい。

来年は「綻」から見えた膿を徹底的に洗い流す年としたい。決してそのまま縫い繕うことはさせまじ。
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