『開発援助か社会運動か』定松栄一著

  • Day:2011.06.11 14:27
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1994年から1999年までネパールに駐在し、「カマイヤ」と呼ばれる債務労働者の調査及び生活向上プロジェクトを実施した経緯を克明に記録した本。凡百の無味乾燥な海外協力プロジェクト報告書とは全く異なる、出色のレポートである。

その理由はまずは、
①カマイヤの実態に関する詳細な調査内容が分かりやすく書かれていること
②パートナーたる現地NGOおよび住民との誤解や軋轢、衝突が赤裸々に描かれていること
③所属しているシャプラニール(日本のNGO)での意思決定プロセスが興味深いこと

一言で言えば、都合の悪いこと=直面した問題や失敗が披露されているから。海外援助はきれいごとではすまないことを教えてくれる。読み物としても抜群に面白い。

と、ここまでなら実態を教えてくれた著者の勇気に感心しつつも、腹を括れば誰でも書けるものであるとも言える。それを上回るこの本の素晴らしさは、開発援助のその先の世界に思いを馳せ、自らの5年間の活動が成功か失敗か思い悩む著者の述懐に出会ったとき、感動とともに実感される。

「その先の世界」とは、タイトルの示すとおり、「社会運動」、つまり「政治」である。

少し長いが、要約する。

※ ※ ※

カマイヤーの調査の結果、定松氏は彼ら土地なし農民を3つのグループに分類した。

①分益小作人:収穫の50%が報酬となる。
②賃金労働者:技術次第で収入が向上する。
③カマイヤ :最低限の収入しかもらえない。

簡単に言うと上のほうが実入りはいい。そこで著者たちは下のグループが上のグループになれるようにプロジェクトを組んだ。その方法はて、地主から高利の借金をしなくてよいようにグループ貯金をする、副収入を増やすための職業訓練、分益小作契約に必要な雄牛の共同購入などだ。

ところがこの計画には無理があった。全員が分益小作人になることには無理があった。分益小作契約で貸そうとする地主は限りがあったし、住民たちも望んでいなかった。カマイヤは技術がなくてもなれ、最低限とは言え収入が保証されているのでリスクが少ないのも一因だ。

そして著者たちは軌道を修正し、収穫前に食糧が無くなると地主から高利の借金をしなければならないという事態を解決するために、無利子の資金を貸すことにした。これを借りた農民は、地主から借りたつもりで利息を払い、これを積み立ててゆくゆくは自己資金で回せるようにする…。

プロジェクトは順調に進んでいた。著者は5年間の活動を終えて帰国する。

※ ※ ※

一方でこういう事実があった。

以前ネパールで民主化運動が起きた時に、地主の下から逃れて土地獲得運動を起こしたカマイヤたちがいた。現在は政府から指定された土地に再定住しているという。彼らの運動は「カナラ運動」と呼ばれた。リーダーに会った著者たちは再定住地での調査を行うことにした。

その後、そのリーダーは「カナラ運動」への支援を求めてきた。そこで著者は「開発事業への支援はできても土地獲得運動への支援はできない」と言う。話し合いは物別れに終わる。

外国のNGOがネパールで活動する許可を政府から受けるには、政治活動にかかわらないことが条件とされている。

※ ※ ※

著者帰国後の2000年5月、19家族のカマイヤたちが村役場に請願書を出した。債務帳消し、最低賃金保証、再定住用の土地を要求をした。運動は瞬く間に広がり、7月には国会前での座り込みが始まる。同月、ネパール政府はカマイヤ制度を廃止するに至った。

その後ネパールを再訪した著者は、解放運動の陰にかつてのパートナーNGOにいた男がいたことを知る。彼はその後英国NGOアクション・エイドに移り、運動を支援していた。

著者はなぜアクション・エイドとシャプラニールが異なる態度を取ったのか、自問する。はたして自分たちのプロジェクトは成功だったのか、失敗だったのか。

※ ※ ※

山本太郎を思い起こす。
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アフリカはどうしたらいいのかについての一つの大胆な主張

  • Day:2010.10.20 07:31
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援助じゃアフリカは発展しない援助じゃアフリカは発展しない
(2010/07/30)
ダンビサ・モヨ

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興味をそそるタイトルに加え、刺激的な言葉が並ぶ。例えば、

「援助の失敗に関する最も憂うつな側面というのは、ドナー、政策決定者、政府、経済学者を含む学者および開発専門家がみな、援助が役立っていないし、役立ってこなかったし、これからも役立ちそうもないことを心の奥底では察知しているということである。」(62頁)

「アフリカにおける腐敗の手口のリストはほとんど無限だ。しかし、アフリカにおける腐敗の問題点は、それが存在することではない。問題は、援助がその腐敗の中でも最大のものの一つであるということである。」(70頁)

著者の論点を強引に要約すると次のようになる。
●欧州に対するマーシャルプランが成功したのは、元々社会制度が整っていた国々であり、その復興を助けたからである。
●アジア諸国の経済成長は開発独裁政権が援助資金を流用したにも関わらず国内に再投資したためである。
●アフリカの腐敗した政権は、流用した援助資金をスイスの銀行に預けてしまうので国内に投資が回らない。

さらに、例えば海外から無償・大量の蚊帳を与えることで被援助国内の蚊帳製造業が消滅する例などを挙げて、
●ひも付き援助は被援助国内の人材が能力を発揮する場を奪い、地場産業を衰退させる。
●一時的な成功は長期的には失敗になることが多い。
という。

※ ※ ※

本書がユニークなのは上記のごとく歯に衣着せぬ発言に加えて、訳者の顔ぶれだ。国際協力機構の理事ら現役の政府機関関係者がずらりと並んでいるのだ。つまり、日本の援助関係者はダンビサ・モヨの主張を世に出す価値のあるものと考えていると思える。

では訳者たちは、本書で述べられているような援助批判は日本の援助には当てはまらないと考えているのか、それとも常に内心抱いている忸怩たる思いの発露の場として本書をとらえているのだろうか。そのあたりを訳者あとがきにでも記述してくれればもっと価値ある一冊になっただろう。

※ ※ ※

本書は援助批判を展開した後、ではいったい何がアフリカを発展させるのかという問いに対しては、①援助ローンではなく起債、②海外からの直接投資、③貿易、④グラミンバンクのような貧者の銀行をあげている。為政者が蓄財に励むのではなくこれらに注力すれば真の発展が可能だという。

旧援助関係者の私が漠然と思い描いていたのは次のような発展段階である。

①援助で経済社会インフラの水準を向上させる。つまり電力や道路をローンやグラントで整備し、保健医療や教育を技術協力などでレベルアップする。
②先進国からの直接投資によって軽工業を発展させる。それまで輸入していた製品を国内生産するとともに、先進国が輸出していたものを低コストで生産し輸出する。

東南アジア諸国の経済発展はこれらに加えて円高で日本企業の製造拠点が海外にシフトする必要があったという要素が大きく作用した。

著者の論点は①の部分を援助に頼らずに行なうべき、ということであろう。問題はa)国債を発行して引き受け手がいるかということと、b)仮に発行できたとしてその償還期限までにそれに見合うほど税収が増えるかどうか、c)技術力をどうするかということだ。c)はa)b)の見通しがつけば解決する問題かもしれない。

もうちょっと議論を煮詰めていく価値はある。

つげ義春の祖父

  • Day:2009.10.04 09:09
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「私の祖父は一時泥棒をしていた。」

こんな書き出しで始まる短い回想記がある。つげ義春の「万引き」というわずか3ページの文章だ。短いながらしかし、この文章には思わず笑ってしまい、ホロリとし、残酷さも感じるという3つの娯楽要素が詰め込まれている。

つげ義春が小学校4年生のころ、祖父は千葉県の横芝駅前の木賃宿に住み、漁網を盗んでは売りさばいていたという。祖父が大原のつげの家に時々来ると、つげは祖父に手塚治虫のマンガ本を買ってくれとねだった。祖父が盗みで得た金を持っていることを知って。

そんな祖父の泥棒生活も2年で破たんする。逮捕されて群馬の刑務所に入れられた。服役後の祖父は大原の家に同居した。つげはなおもマンガ本をねだる。そして本屋へ行き、字の読めない祖父に欲しい本を指差し、「間違えんなよ」と言って外へ出る・・・。

結末はお読みいただきたい。新版 つげ義春とぼく (新潮文庫)

※  ※  ※

私の母は横芝で育った。今でも小母の住む実家がある。私も子供のころから横芝にはよく行ったので、駅前の木賃宿はたぶんこちらではないかと思う。

ryokan


システムとファクトリー、やみくろ

  • Day:2009.09.09 20:20
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1985年8月25日6刷というのだから、就職して2年目の金がないときに1800円で購入している。若い時は本の価値をよく知っていたのだ。世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドを再読した。卵と壁について書いてから、読み直したいとは思っていた。

「私」の住むハードボイルド・ワンダーランドと、「僕」の住む世界の終りで交互に物語が進む。「私」はシステムに属する計算士だが、ひょんなことからシステムと対立するファクトリーに狙われ、システムにも居場所がなくなる。「僕」は壁に囲まれた心のない人たちが住む「世界の終り」にどこからともなくやってきて、まだ「影=心」をひきずったまま、図書館で一角獣の頭骨に潜む夢を読む仕事を与えられる。「私」には心を失う時限装置が課され、「僕」は影=心と別れて、心を失った図書館の彼女と生きる道を選ぶ。

世界はメタファーに満ちている。

システムは体制、ファクトリーは反体制、やみくろは闇社会のメタファーだ。どっちに転んでもいいことはない。心は失われる運命にある。唯一の希望は世界の終りで「僕」が選択する道、手風琴の和音で音楽=ダニー・ボーイ=心を思い起こし、彼女が母親から引き継ぐ「心」の可能性に賭ける。

※  ※  ※

どっちに転んでもいいことはない状況で、どう生きていけばいいのか?おそらくは村上春樹がここ数十年考えてきたことはこの一言に尽きる。生きにくい世の中で、「心」を失わずに生きていくにはどうしたらいいか。この小説ではそれが、自分の心の完璧さを求めることではなく、図書館の彼女の失われたはずの心に再生の萌芽を見出すことであり、『海辺のカフカ』では佐伯さんの忠告に従うことだった。そこに希望という名の隘路がある。とても選択しにくい道だけど、それを意識して選んでいこうというのが彼のメッセージだ。

※  ※  ※

世界はメタファーに満ちている、

オシロイバナもカエルくんも。

米原万里 『オリガ・モリソヴナの反語法』

  • Day:2009.09.05 10:31
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1 エリトリア
2 北朝鮮
3 トルクメニスタン
4 イラン
5 キューバ
6 ミャンマー
7 中国
8 ベトナム
9 ラオス
10 ウズベキスタン

国境なき記者団が発表している、言論の自由ランキングワースト10である(2007年)。社会主義・共産主義国家と軍事独裁国家が並んでいる。言論の自由はグローバライズされていないことがよくわかる。まだまだやることはたくさんあるのだと思わせる。

169か国のベスト1はアイスランド、日本は37位である。日本のマイナス評価としては記者クラブの閉鎖性、プラス評価としては言論機関に対するテロが減少してきたことが指摘されている。

軍事独裁国家は別として、なぜ社会主義・共産主義国では言論の自由がないのか?あるいは実現できないのか?これはこのところ頭の片隅にこびりついて離れない謎である。

一応の答えはある。「党の無謬性」だ。
共産主義の実現を目指す国家では、共産党が唯一正しい指導者であり、党の決定に誤りはないとされる。だから、党の政策を批判することは批判者が間違っており、反革命的な行為である。従って、党への批判は許されない。

いつも不思議なのは、そうでない共産党というのがなぜ現れないのだろうかということだ。人間が完全でないことを認め、その人間の集団からなる共産党も完全ではないことを前提とし、批判に耳を傾け、対立政党の存在を認める・・・そんな共産党があってもいいのではないかと思う。プロレタリアート独裁を掲げることが共産党の本質ならば、それは存在論的に矛盾しているのだろうか?でも現に共産主義国の独裁者はプロレタリアートではないではないか!

しかし実際には、権力を握った共産党は一党独裁体制を敷き、世論から遊離し、言論弾圧とそれを担保する暴力装置(収容所)を装備する。オリガ・オリソヴナが生きたのも、そんな時代のソ連である。

※  ※  ※

1960年、シーマチカこと弘世志摩は在プラハソビエト学校に編入し、そこでオリガ・モリソヴナという名のダンス教師と出会った。70歳はとうに過ぎていると思われる彼女は自称50歳、生徒を叱責するとき、「天才少年!」などと褒め言葉を使う。これが「反語法」だ。古典的なフランス語を話すエレオノーラ・ミハイロヴナは若き日のグレタ・ガルボのような服装で、「オールド・ファッション」と呼ばれる。さらに東洋系の顔だちをした踊りの天才少女ジーナは、オリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナの二人を母と呼ぶ。

ソビエト学校に5年近く在籍したのち、シーマチカは日本に帰国する。そしてソ連崩壊後の1992年、モスクワで級友カーチャと再会、3人の人生を辿っていくことになる。関係者を訪ね、オリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナはソ連国民でバイコヌール平原(現カザフスタン)の労働強制収容所に入れられていたことを知る・・・。

「この冷酷非道な嗜虐性は、一体どこから発するのか。いかなる革命的原理に基づいて、これほどサディスティックに人々を虐待するのだろうか。ドイツ・ナチスの犯罪者たちは裁かれ、今もその責任を追及され続けている。ソビエト・ロシアにおいては、今もって平(ひら)のNKVD職員は誰一人として公に裁かれてはいない。投獄された人々を虐待し、殺した看守たちも、死刑執行人たちも、収容所の責任者たちも……のうのうと安泰な年金生活をおくり、名誉に包まれて生を全うしていく。」

スターリンによる「粛清」というものがどのように行われたのか、上に引用した一節は「祖国に対する裏切り者の家族の一員」として裁かれた妻たちが、収容所へ送られるまでを過ごすブティルカ監獄での描写の後に続いている。そこでは「用は衆目のもとにたさなくてはなら」ず、「気が狂いそうな無為」だけがあった。

おそらくはこの一節が、筆者の最も伝えたかった二つのメッセージのうちの一つである。粛清の非道さを訴えること、現在でも誰も責任をとっていないことを糾弾することは確かに著者の言いたかったことである。

しかし、これだけだったらこの小説の魅力は失われる。というか単なるアジビラに堕してしまう。この作品に豊かさを感じるのは、もうひとつの、主軸となる要素に貫かれているからだ。爆笑を誘うダンス教師の反語法と、没落貴族の悲哀を体現するオールド・ファッション、二人とジーナの特殊な関係が興味深い物語として展開されているからこそなのだ。どんな状況でも、ベストではないかもしれないが精一杯の選択をしてきた人間への連帯を表明したくなるような物語が綴られているためである。

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)
(2005/10/20)
米原 万里

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