ユハ・クリステンセンさんという人

去年の10月20日の記事で、アチェ和平合意のキーパーソンとなりノーベル平和賞を受賞したアハティサーリさんのことを書いた。「どうして彼にそんなことができたのか。」とも。

動いた人がいたことを知った。ユハ・クリステンセンさんというフィンランド人。彼がインドネシア政府、GAM双方に人脈を持ち、アハティサーリを引っ張り出した人だということをこの本で知った。

平和構築の仕事平和構築の仕事
(2007/11/24)
カトゥリ メリカリオ

商品詳細を見る


ユハさんは元々言語学者だった。1985年から5年間、やはり言語学者の奥さんとともにスラウェシ島のマカッサル(当時はウジュン・パンダン)で暮らした。帰国してからは、企業のコンサルタントとしてインドネシアを訪れる機会を得た。その間、紛争地域への関心を抱くようになる。

“安定を創り出すことができれば、他の問題に集中して取り組むことができる。例えば、新しい疾病、環境破壊、エネルギーの枯渇といった問題にね”

初めてアチェを訪れたのは2002年10月。ウレレの海岸を歩き、たちまち彼はアチェに“恋をした”と言う。丘、海岸、美しい街、親切な人々、食べ物すべてに。

アチェ和平を模索する動きはこれまでもたびたび行われてきた。2002年にはアンリ・デュナン・センターが調停役となり、「敵対行為の停止についての枠組み合意(COHA)」がなされていた。

しかし翌年武装警官とGAMが衝突、停戦監視団が襲撃を受ける。2003年5月、東京で開かれる復興和平会合に参加しようとしたGAM交渉団員が拘束され、COHAは決裂する。その夜、メガワティ政権は軍事非常事態宣言を発した。

ユハが活動を始めたのはその直後である。

ストックホルムに亡命しているGAM幹部と会い、パワーポイントで自分がどういう人間で何をしてきたか、なぜアチェに関心を抱いたのかを説明した。

12月には、後にユスフ・カラ副大統領からアチェ和平の特命を受けるファリド・フサインに会う。GAM幹部を知っていると話すと、ファリドは驚き、興味を示した。

ユハは、GAM・インドネシア政府双方と徐々に信頼関係を築いていった。

2004年クリスマス、ユハはヘルシンキから、和平交渉への招待状を両者に送る。津波が襲ったのはその2日後のことである。

※  ※  ※

「時の運」は確かにあった。
2004年秋、アチェ問題の進展を望むスシロ・バンバン・ユドヨノが大統領に、ユスフ・カラが副大統領になった。
GAMも戦いに倦んでいた。

それらすべてを勘案しても、ユハの行動力には端倪すべからざるものがある。一民間人がここまでできるのかと驚嘆する。いや、一民間人だからできたのかもしれない。自らの信じるところを貫くという強い意志と、その実現のために熟考された戦略、そして限りないオプティミズムがこの歴史的な偉業を彼になさしめたのだと思う。

参考:ジャカルタポストの記事



スポンサーサイト

アチェ和平に貢献した人

前フィンランド大統領のアハティサーリさんがノーベル平和賞を受賞しました。

ノーベル平和賞にアハティサーリ氏

この人のことを知ったのは、インドネシアのアチェで、独立派と政府の和解が実現したときです。

2004年の12月にあのインド洋スマトラ沖大地震が起こりました。それまでスマトラ島最西端のアチェでは自由独立運動(GAM)とインドネシア政府軍が戦争をしている状態でした。大津波の結果、双方に甚大な被害が生じました。もう戦争しているどころの話ではないわけです。

それからわずか8か月後、30年近くにわたった「アチェ紛争」が終息します。私はこのとき単純に、自然災害が両者を歩み寄らせたんだと思っていました。

ところが実際は違うのです。自然に任せていただけでは平和は訪れません。その前から和平に向けてアハティサーリさんたちが努力していたからあんなに早く和平が実現したのです。大津波は、大きいですが一つのきっかけにすぎなかったのです。

日本の援助の世界では「平和構築」という部門がここ7、8年脚光を浴びています。経済・技術協力による経済発展支援だけではなく、その前提となる平和の実現が必要だという発想です。それはそれで正論だと思いますが、現実に行われているのは住民のエンパワーメント、平和教育、生計向上といった間接的なものです。アハティサーリさんがやっている、対立する紛争当事者間に割って入って合意に至らせるというようなことはなかなかできないのが現実です。

どうして彼にそんなことができたのか。とっても興味深いテーマです。

【復刻版】アチェへ行くもう一つの理由

(この記事は、サーバートラブルにより消失した2006年10月頃に書いたものの再現です)

志木の中学生10名ほどが、職場に来てくれました。
インド洋大津波の被害に対して、日本がどんな支援をしているのか知りたいというのがご訪問の目的です。
津波は2004年の12月26日に多くの人の命を奪いました。
一月後の1月下旬、私は支援事業を立案するための調査メンバーとしてバンダアチェ市及び大アチェ県を訪問します。およそ10日間の日程でした。そのときに見たこと、聞いたこと、感じたことを写真を見てもらいながらお話しました。

中学生諸君は、新宿の無味乾燥な会議室の居心地が悪いのか、緊張の面持ちです。本論の前にアイスブレイクのつもりで、趣味は何?などと聞いたのですが、「ゲーム・・・」とか細い声が返ってくるだけです。この訪問は、彼らが望んだものでないのかなあなんて思いながら、お話しました。

しばらくして、全員の感想文が送られてきました。たぶん先生がご指導されたのでしょう、書き出しと結びの文言は判で押したように同じ言葉が並び、自分の感じたことは中段に書かれています。正直、いつも読んでいる役所の文章みたいだなあなんて苦笑してしまいました。
でも、一人の感想文に私はびっくりすることになります。そして、とても嬉しい気持ちになりました。

kansoubun


お話の後、(これもあらかじめ考えてきたんだろうなあと思われましたが)いくつかの質問に続いて、「自分たちに何ができますか?」という問いがあったんです。
私は、「ドラえもん募金に協力するとか、あるだろうけど・・・」と言いながら、思い付きを話します。
「憶えておいてあげること、うん、たまにでいいからアチェに住む人たちのことを考えてみて、津波のあと、どうなったかなとか。そして、いつかアチェの人に会うことがあったら、津波のときは大変でしたね、今はどうされていますか?と話してみることが、できることの一つかな」

話しているときには、こんな風に感じてくれたんだということが彼らの表情からは読み取れませんでした。でも、表に表れないからといって、何も届いてないわけではないんです。
戒めるべきは、自分の早合点なのでした。

劇団「虹」からアチェ行きのお誘いを受けたとき、このことを思い出しました。

祝!「虹のかなた」 東京ビデオフェスティバル入賞

ICUの学生が中心となった劇団「虹」と、おととしアチェ公演を行いました。(その時の記事

そのドキュメント「虹のかなた」が東京ビデオフェスティバルで入賞したと、撮影・構成・編集・ナレーションを一人でこなした七瀬監督から嬉しい知らせをいただきました。
東京を出発して現地で公演を重ねる旅と、芝居のストーリーをうまく重ね合わせた作品に仕上がっています。いやいや、何よりも魅力的なのは・・・これは見てのお楽しみということで。

「虹のかなた」を見る

これを見て思うのは、今更ながら記録映像作品の持つ記憶喚起力以上の何ものかの素晴らしさです。
「記念写真」という言葉があるように、映像は何らかの記憶を焼き付けるため、開けばそれを思いださせてくれる玉手箱のような機能を持っています。しかし、実はそれに加えて、そのとき気がつかなかったものまで発見させてくれるという魅力もあります。記念写真を見て、背景にこんなものがあったのかと発見することはよくあることです。隣にいる人がどんな表情をしているかは、いや自分の顔すら、写真を見るまでは実は分かっていないのです。写真は記憶以上のものを焼き付けています。

さらに動画に人の手が加わって、映像作品としてまとめられると、ものが存在していたという次元とは別の新たな発見があります。こんなエピソードがあったなんて知らなかったとかあの時あいつはあんなことを考えていたんだという驚き。ナラティブなものと言えばいいのか、そんなものが時間の流れの中に織り込まれています。

「虹のかなた」を拝見して、アチェ公演に同行していた者としては、もちろん見知った風景はあるものの、そんなことがあったんだあと初めて知ることがたくさんあったのには自分自身驚きました。

例えば仮設住宅の子供たちの表情に何を見るか。芝居のクライマックスで示される子供たちの反応にどう変化が生じてきたか。

それらが新鮮に映ずるのは、七瀬監督の視点がこの作品に横溢しているからにほかなりません。

Read more...

謹賀新年

lima anak kecil

明けましておめでとうございます。
本年もぼちぼちアップしていきますのでごゆるりとお付き合いください。

上の写真はインドネシア、ナングロ・アチェ・ダルサラム(NAD)州北部のロクスマウエというところで撮りました。今回アチェで撮った写真で最も評判のよかった一枚です。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。